広島市の平和記念公園に立つ「原爆の子の像」のモデルとなった佐々木禎子さんの親戚の男性が、語り部活動を始めた。よく一緒に遊んだ禎子さんの等身大の姿を通し、その命を奪った原爆のむごさを伝える。原爆忌の6日も広島市内で禎子さんについて語る。
禎子さんとの思い出
広島市安佐南区の大田修資さん(85)は、原爆投下時は4歳で、母親と姉と広島県三原市に疎開していて無事だった。2歳だった禎子さんは爆心地から約1.7キロの広島市内の自宅で被爆したが、大きなけがはなく、しばらくは元気に過ごしていた。
禎子さんは大田さんの母親のいとこにあたる。原爆投下直後の混乱が少し落ち着くと、大田さんは母親や姉に連れられ、広島市内の佐々木家をよく訪ねた。禎子さんとは年齢が近く、「禎子」「しゅうちゃん」と呼び合って、がれきが残る広島の街で遊んだ。「帽子持った?」。海へ遊びに行く時は2歳上の大田さんにそう声をかけるしっかり者だった。
折り鶴への願い
禎子さんが小学6年の時に白血病がわかり、入院生活が始まった。大田さんは弱っていく姿を見るのがつらく、病院には行けなかったが、見舞いに行った母親から禎子さんが病床で折り鶴を作っていると聞き、折り紙に使えそうな包み紙を探しては母親に託した。
禎子さんは入院から約8か月後の1955年10月に12歳で亡くなった。その翌年、大田さんは禎子さんの親に誘われ、約1年間、佐々木家で暮らした。病状が悪化する中でも禎子さんが「家族や子どもたちが平和に暮らせるよう、折り鶴を作り続ける」と話していたと聞いた。
大田さんは「最期まで他人のことを気遣い、禎子らしいなと思った。同時に、こんな目に遭わせた戦争を憎いと感じた」と語る。
語り部への決意
大田さんは高校卒業後、東京に本社がある建設会社に勤務。毎年夏には「原爆の子の像」に足を運んでいたが、仕事が多忙だったことに加え、自身には原爆の記憶がなく、証言活動はしてこなかった。
しかし、禎子さんとの話を大田さんのめいから聞いた被爆2世の女性との縁で、昨秋から伝承団体の活動に参加するようになった。証言を頼まれたが、今になって語り部を始めることを後ろめたく感じた。
今年1月、禎子さんの兄、佐々木雅弘さん(85)(福岡県那珂川市)に相談した。雅弘さんから「ありのままを語ってくれ」と背中を押され、禎子さんの写真や資料を託された。証言を決意した。
2月に伝承団体のメンバーら約20人を前に禎子さんとの思い出を語った。「同じ時間を共にした人の話は重みがある」と声をかけられ、手応えを感じた。6日には広島市内の小学校教諭らに証言活動を行う。
雅弘さんは「禎子のことを知る人が少なくなる中、身内が語り継いでくれるのは心強い」と話す。大田さんは「平和を願い続けた禎子の遺志を次世代につなぎたい」と誓う。



