先の大戦末期の昭和19年、日本軍守備隊が玉砕したパラオ・アンガウル島。今年1月、その地を初めて訪れた甥は、特別な思いで戦後81年の「終戦の日」を迎える。遺影でしか知らない伯父。「足跡の一部をたどることで忘れてはならない存在だと改めて感じた」と思いをかみしめている。
「後藤隊長の部下、亀田隈太郎の甥です」
「後藤隊長の部下、亀田隈(くま)太郎の甥です」。今年1月、慰霊のために訪れたアンガウル島で、愛知県小牧市の亀田昌映(まさてる)さん(60)は、戦没者遺骨収集団のメンバーとして現地で活動中だった後藤寛さん(76)に駆け寄った。
日本の南約3200キロにあるパラオ。数百の島で構成され、南端に位置するアンガウル島は伯父で、陸軍少尉の隈太郎さん=当時(24)=が戦死した地だ。最期についての詳細は不明だが、同島の戦死者と同じく昭和19年12月31日に亡くなったと認定されている。
後藤さんはアンガウル島守備隊長だった伯父・丑雄(うしお)さん=同(35)=をこの地で亡くした遺族。自身と同じ立場だ。初対面だったが、言葉はなくても通じる思いがあった。「伯父に導かれていると感じる旅でした」
教諭だった伯父、足跡をたどる
隈太郎さんはもともと栃木県師範学校(現宇都宮大)を卒業した小学校教諭だった。「父から戦死した伯父がいたと聞いていたが、戦争や戦前に対して批判的だった学校教育の影響もあり、顧みることはなかった」と明かす。
だが、自身も社会に出て家庭を持ち、年齢を重ねるにつれ、伯父の存在が気になった。独身のまま24歳で戦死した伯父が、懸命に将来の目標に向かう同世代の三男の姿と重なった。「誰も最期の地を訪れておらず、あまりに気の毒だ」。数年前から戦記を調べ、アンガウル島訪問を決意。昨年、厚生労働省に連絡して慰霊巡拝の存在を知り、参加を決めた。
「はるか日本からここまで来て亡くなったのか…」。島での滞在はわずか4時間ほどだったが、群青の海が広がる砂浜に立ち、しのんだ。帰国後、栃木県佐野市にある伯父の墓前で手を合わせた。現地で米軍が日本軍将兵の遺体358人分を弔った埋葬地で遺骨収集が行われていることから、墓を守るいとこと相談して、遺骨の身元特定用にDNA型鑑定を申請すると決めた。「もしかしたら伯父の遺骨もあるかもしれない」
風化する記憶、共有された思い
戦後81年。戦没者を直接知る世代は少なくなり、当時の記憶は風化しつつある。慰霊巡拝の存在は広く知られているわけではなく、周囲は観光でパラオに行くんだろうという認識だった。そうした中、現地で、同じ気持ちで巡拝団に参加した遺族や後藤さんらと知り合い、戦没者慰霊に対する思いを共有できたことに救われた。「伯父さんの人生を全く知らなかった。それでも過去の歴史があって、今がある」。絶海の孤島で命を落とした伯父への思いをこう語った。
アンガウル島の戦い
日米にとってフィリピン攻防の要衝だったパラオ・アンガウル島を巡る戦闘。昭和19年9月17日、米軍は島への上陸作戦を開始。日本軍のアンガウル島守備隊1200人余りに対し、米軍は2万1000人以上の兵力を投入した。十分な武器や支援がない中、日本軍は1カ月にわたる持久戦を展開し、ほぼ全滅。生還者は約50人だった。



