明治時代から続く奈良市の墨工房「錦光園」が、墨の原材料として古来使われてきた「松煙(しょうえん)」の生産を始めた。国内の生産者がたった1人になった危機的状況を受け、同工房の7代目墨匠の長野睦さん(49)が「自らの手で残さなければ」と一念発起。奈良県東吉野村に拠点を構え、墨の文化を未来に継承しようと取り組んでいる。
松煙とは何か
松煙は油分が多い赤松の木を不完全燃焼させて出る煙から採取するススだ。錦光園によると、2世紀頃の漢では松煙を使った墨が生産されていたと言われる。しかし、植物油を燃やして作る「油煙」の普及や、近年の墨の需要減少などを背景に衰退。現在は和歌山県にある墨工房1軒しか作り手がいないという。
朝鮮半島から墨が伝来したとされる飛鳥時代から墨作りが盛んだった奈良で、伝統的な手法で作り続けている長野さんは「松煙は墨の歴史そのもの。存在を史実に記録するだけではなく、実物を残さなければいけない」と語る。
プロジェクト発足と試行錯誤
松煙の国内生産を続けるため、長野さんは2024年に「大和松煙プロジェクト」を発足させた。クラウドファンディング(CF)で支援を呼びかけると、676人から560万円を超える金額が集まった。25年秋には県産の赤松を輸送してくれる業者がいる東吉野村の旧製材所を借り、松煙の試験生産を始めた。
だが、最初は思うようにはいかなかった。赤松を燃やす炉はススを集めるために密閉するが、水蒸気は外に逃がさないといけない。密閉し過ぎて水蒸気がたまり、炉が水浸しになってしまったという。想定以上に資金も必要で、「事業を継続できないのでは」と不安もよぎった。
生産の手応えと今後の展望
それでもCFに寄せられたコメントに背中を押され、「この業界で松煙の生産が継続できるのは自分しかいない」と気持ちを奮い立たせた。約1年の試行錯誤の末に生産のコツが徐々につかめてきたといい、7月からは本格的な生産に乗り出した。現在は週に2~3日程度、奈良市と東吉野村を行き来しながら、生産に取り組んでいる。今後は完成した松煙を原材料とする墨の制作と販売が目標だ。
CFを機に建築業者などからも「松煙を使いたい」と連絡が来るようになった。松煙は昔ながらの建物の壁や床に使う塗料や着物の染料、線香花火の材料としても国内で活用されてきたといい、長野さんは「昔からの産業に需要があり、期待を感じる。まだまだ少量しかできないが、役に立てればうれしい」と意気込む。
現在もプロジェクトの様子はSNSなどを通じて発信中。「松煙を通じて墨が日本の歴史を紡いできたという事実を、多くの人に知ってほしい」と、長野さんは話している。