名古屋城石垣、石材は海路で運搬 西国大名20人の調達難航の実像
名古屋城石垣、石材は海路で運搬 西国大名20人の調達難航

名古屋城の石垣は、20人の西国大名によって築かれた。名古屋城調査研究センターの堀内亮介学芸員(36)の調査・分析によると、大名の動員時期が異なっていたり、大名間で情報網の差が出ていたりしたことが前回紹介された。今回は難航した石材の調達方法について探る。

石材調達の難航と再分配

名古屋城の地理的状況を整理すると、北と西は平野が、南と東には平らな台地が広がり、周囲には山地が少ないことがはっきりしていた。各大名にはどれくらいの石材を調達するかが求められていたという。例えば、九州の細川家は1000坪ほどが割り当てられ、6000個ほどが必要だった。さらには天守台石垣にも納入が課せられていたとの情報もある。

このため、各大名はどこでどのように石材を調達するかが問題となった。細川家は、当時の美濃国(現在の岐阜県海津市)、尾張国東部(現在の愛知県瀬戸市)など複数の石丁場を確保し、当主である忠興らが自ら現地で指揮を執っていた。一部の石が普請には使えないことが明らかとなり、追加で石を確保するよう指示を出すこともあり、そのために費用が急増することもあった。

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各大名の石材調達が間に合わなかった可能性もあり、石垣を築くための土台となる石を置く「根石置き」は1610年3月の時点では5月に設定されていたが、実際は6月3日と1か月遅れる事態となった。石材の確保が難航した影響からか、最中には石丁場の再分配も行われていた。堀内さんは「大名間で石の確保を巡る競争が起きていた可能性も捨てきれない」とみる。

海路での運搬と混雑

石材を名古屋城まで運ぶ手段としてメインとなったのは海路だった。山内家は土佐国西部(現在の高知県大月町)、池田家は播磨(現在の兵庫県高砂市)からそれぞれ、船で石を運んだとされる。天候に運航が左右される船だが、多くの大名が使っていたとみられる背景には、改めて名古屋城近郊の石丁場だけでは石材が足りていなかったことが想定される。

延べ20万人が動員されたと伝えられ、当時の資料からは1610年3~7月、尾張国は群衆であふれ、伊勢湾は石船が多数動員されるなど混雑していた記述がみられる。

9月には完了したという名古屋城普請。「計算通りにいかず苦労は絶えなかったが、石垣を積むことは決してやめなかった。大名は自分たちに任された役目を必死に果たそうとしていた」。堀内さんはそう語る。1年とかからず積み上がった石垣には、西国大名たちそれぞれの足跡が刻まれている。

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