玉音放送後も特攻命令、濃霧で中止…復員後「何で生きて帰った」と非難
玉音放送後も特攻命令、濃霧で中止…復員後に非難

かつて宮崎県都城市にあり陸軍特別攻撃隊の基地だった「都城東飛行場」で、1945年8月15日の終戦翌日に出撃が行われようとしていた。待機中に中止となり、生き残った隊員たちは戦後、当時の状況や心境を手記、証言で残した。終戦前の混乱を現代に伝える貴重な記録となっている。

玉音放送後も出撃準備

45年8月15日正午、昭和天皇が敗戦を伝える玉音放送が流れた。だが、都城東飛行場では放送後も、特攻機の出撃に向けた準備が進められていた。特攻隊員だった矢崎桂さん(故人)が2009年に残した手記には、「八月十五日の午後十時過ぎ、翌十六日早朝、沖縄、伊江島周辺を目標とする出撃命令が発令された」と書かれている。

手記によると、玉音放送はうまく聞き取れず、敵艦隊の北上など情報が錯綜する中で出撃命令が発令された。16日早朝の出撃直前、都城盆地特有の濃霧が発生。離陸できずに中止となり、その後、東飛行場に来た連絡将校によって戦争終結を知らされたという。

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隊員間の情報格差

出撃は東飛行場の3隊に命じられた。矢崎さんとは別の隊に所属していた福本忠美さんが、大分県少飛(陸軍少年飛行兵)会が1995年に刊行した文集「赤とんぼ」に手記を寄せている。それによると、45年8月14日午前に沖縄から敵艦船40隻が北上中との情報が入り、出撃が発令。15日の玉音放送は聞き取れなかったが、同日夕方には日本の降伏(敗戦)の知らせが連絡将校から届いていたという。

にもかかわらず、福本さんの隊長は「明日(16日)の攻撃は断固決行する」と宣言し、隊員たちも応じた。16日はやはり濃霧が発生して出撃が遮られる間、「兵団長閣下」の使者が車で東飛行場に乗り込み、出撃を止めたという。

16日の出撃を前に敗戦を知らなかったという矢崎さんと、知っていた福本さん。別個の隊に所属していたとはいえ、極めて重要な情報への格差が隊員間で生じていたことに、当時の混乱ぶりがうかがえる。

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