原爆調査の教授の手書きメモなど19点、宝塚で見つかる
原爆調査の教授の手書きメモなど19点、宝塚で見つかる

原子爆弾投下直後の広島市で被害調査にあたった大阪帝国大(現・大阪大)教授の浅田常三郎博士(1984年、83歳で死去)の手書きのメモや被爆して焼けた板塀の一部など、計19点の資料が兵庫県宝塚市立教育総合センター(小浜)で見つかった。市教育委員会は広島平和記念資料館(広島市)に資料を送り、寄贈を前提に詳しい調査を依頼する。

資料発見の経緯と内容

資料は6月中旬、同センター3階の書庫の棚で、書類整理をしていた職員が見つけた。堺市出身の浅田博士は大阪帝大で応用物理や放射線物理を学び、1945年8月6日の広島への原爆投下後、海軍の調査団の一員として、10日に広島入り。2日間の調査で、ガイガーカウンターなどを使って放射線を測定。投下されたのが原爆であることを海軍関係者に報告した。同大学で教べんを執り、ソニー創業者の盛田昭夫氏ら産業界を支えた人材育成にも努め、戦後の産学連携を進めた。

今回、見つかったのは45~47年の資料だ。戦争遂行のための科学技術を結集する内閣直属機関・技術院が終戦前日、政府へ提出した「新型爆弾ニヨル広島市災害状況調査報告」もある。「極秘」の朱印と「12」のナンバーがあり、複数配布されたうちの一部とみられる。報告書は既に公開されているが、浅田博士の入手経緯が注目される。

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手書きメモと焼けた板塀

手書きのメモ6枚は、広島での「特殊爆弾」調査の備忘録。呉海軍病院の院長の聞き取りとして、〈広島の方向に 松茸(まつたけ) の 如(ごと) き形の白き入道雲〉〈閃光を認めてから約一分後に爆風〉〈数万トンの火薬の爆発の如く〉〈雲は深紅色を呈した〉と生々しい表現が並ぶ。調査団メンバーの名前や残留放射線量の計算式も書き込まれている。

書類以外で唯一のものは、黒く焼けた板塀の一部だ。手のひら大で、「アレチノギクの陰影が映り、爆心から2000メートル付近の広島女子高等師範学校で取得」との内容のメモが貼りつけられている。

今後の調査と情報提供

宝塚市教委が資料館に画像データを送ったところ、「当時の調査や物理学と医学の連携の様子を示す貴重な資料の可能性が高い」との連絡があったといい、今後、現物を届け、調査後の寄贈も進める。

一方で、博士は宝塚市に居住歴はないとされ、なぜ宝塚に約80年前の資料が残っていたのか市に記録がなく不明だ。市教委は「経緯をはっきりさせ、平和のバトンとして後世につないでいきたい」と、手掛かりとなる情報も募っている。情報提供は同センター(0797・84・0946)へ。

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