秀吉の「中国大返し」は神業ではなく標準的行軍だった 通説を広めた国民的作家の名前
秀吉の中国大返しは標準的行軍 通説広めた作家

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で、ついに本能寺の変が描かれた。明智光秀が織田信長を討った知らせを受けた羽柴秀吉は、備中高松城で対峙していた毛利勢と急遽講和を結び、姫路城へと強行軍で戻る——世に名高い「中国大返し」である。だが、この壮大なエピソードは、後世の創作によって大きく脚色された可能性が高い。ルポライターの昼間たかし氏が、最新の史料研究を基にその実像を明らかにする。

原典は江戸時代の『太閤記』、その記述の実態

中国大返しの根拠とされるのは、小瀬甫庵が著した『太閤記』である。同書の記述は以下の通りだ。

「同六月六日未之刻に高松を引払ひ沼の城まて帰陣有、折節甚雨疾風に因て所々之大河洪水出しかは、七日は滞留有て、八日至㆓于姫地㆒令帰城にけり、其日は諸卒休息のため、出勢延引有て、九日未明に姫地を立、急き給ひしかは、十一日午前に至㆓尼崎㆒参陣し、頓て落髪有ぬ」

現代語に訳せば、天正10年6月6日の午後2時頃に備中高松城(岡山市北区高松)を発ち、同日中に備前沼城(岡山市北区沼)へ帰陣。豪雨と洪水のため7日は沼城に滞留し、8日に姫路城に到着。休息のため9日未明に出発、11日午前中に尼崎に参陣し、すぐに信長の喪に服すため落髪したという。

Pickt横長バナー — Telegram用の共同買い物リストアプリ

「1日で姫路城まで」は無理筋、手紙が示す真実

通説では、秀吉が驚異的なスピードで行軍したとされるが、実際の距離を計算すると疑問が浮かぶ。備中高松から姫路までは直線距離で約70キロ、道のりは100キロ以上。『太閤記』の記述通りなら、6月6日から8日までの3日間で移動したことになる。1日あたり約23キロの行軍であり、これは戦国時代の標準的な速度に過ぎない。

さらに、近年発見された秀吉の書状から、実際には6月5日にはすでに動き出していたことが判明している。つまり、『太閤記』の記述より丸一日早く行動を開始しており、その分余裕があった。にもかかわらず、後世の脚色によって「神業的な大返し」というイメージが定着した。

司馬遼太郎が創り上げた「神業」のイメージ

昼間氏によれば、この中国大返しを「神業」として広めた最大の功労者は、国民的作家・司馬遼太郎である。司馬は1960年代に発表した小説『国盗り物語』などで、秀吉の機動力と決断力を劇的に描き、その後の歴史認識に決定的な影響を与えた。

「司馬遼太郎の筆力によって、秀吉のささやかなホラが壮大な神話に変えられた」と昼間氏は指摘する。実際、中国大返しという言葉がマスメディアで使われるようになったのは1980年代以降で、1996年のNHK大河ドラマ『秀吉』で広く一般に浸透した。

ホラが史実に化ける過程

秀吉自身も、自らの行軍速度を誇張して語る傾向があった。書状には「一昼夜で姫路まで駆け抜けた」と記されたものもあり、これが後世の史料に採用された可能性がある。しかし、実際の移動距離と時間を計算すれば、それは誇張であることが明らかだ。

「中国大返しは、秀吉の自己プロデュースと、それを増幅した作家たちの創作の産物」と昼間氏は結論づける。現代の歴史研究では、このエピソードは「平均的な行軍」として捉え直されている。

大河ドラマと史実の乖離

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」でも、中国大返しは劇的に描かれるが、史実に基づけば「ごく普通に引き返しただけ」だった可能性が高い。視聴者が抱く英雄像と、実際の歴史の間には、想像以上の隔たりがあるのかもしれない。

Pickt記事後バナー — 家族イラスト付きの共同買い物リストアプリ