厚生労働省が映画『ママがもうこの世界にいなくても 私の命の日記』とのタイアップを発表し、SNS上で批判が殺到している。「悪趣味すぎる」との声が上がる中、評論家の真鍋厚氏は、単なる広報上の配慮不足ではなく、現代社会における「病の消費構造」や国家による国民の生と死のコントロールという構造的問題を浮き彫りにしていると指摘する。
がん治療の現状と「余命モノ」の乖離
各種統計によれば、近年、がんの生存率は多くの部位で上昇傾向にあり、かつての不治の病的なイメージから様変わりしている。また、医療の高度化により働きながら治療する人も増えている状況にある。それを「余命モノ」と一緒にするのはあまりにも悪趣味すぎるだろう。
とりわけAYA世代と呼ばれる若年・思春期の患者が直面しているのは、就学や就労、結婚、育児といったライフイベントと治療をどう両立させるか、病がもたらすストレスフルな状況をどう生き抜くかという極めて切実で現実的な闘いである。そこに必要なのは、日々の生活を支え、生活の質(QOL)を保つための実務的なバックアップだ。
「感動ポルノ」による上書きへの異議
しかし、「余命モノ」というエンターテインメントのジャンルは、必然的に死を前提とし、そこに向かうプロセスをドラマチックに美化(あるいはロマンチック化)して消費する構造を持っている。これから治療に向かい、生きるために必死にもがいている当事者が集う病院の空間に、「ママがもうこの世界にいなくても」という、死を運命づけられたコピーが掲示されるのである。
これは生命倫理の観点から言えば、患者自身が紡ぐべき「これからを生きる物語」を一方的に奪い、お涙頂戴の「美しき死の物語」に置き換える暴力に他ならない。SNSで噴出した当事者や関係者による批判は、自分たちの泥臭い「生きるための闘い」を、「エモ消費」のための「感動ポルノ」によって上書きされたことに対する、極めて正当な異議申し立てなのだ。
「感情の統治」という罠
では、なぜ厚労省はこのようなタイアップに踏み切ったのだろうか。ここには、現代の国家が陥りがちな「感情の統治(Affective Governance)」の罠が潜んでいる。感情の統治とは、権力が法律や規制といった直接的な強制力ではなく、人々の「共感」「感動」「恐怖」「不安」などの情動に直接働きかけることで、自発的に特定の行動や価値観へと誘導する統治手法を指す。
このタイアップは、当事者の尊厳よりも「分かりやすさ」と「共感」を優先する行政手法の一例であり、国家が国民の生と死をどうコントロールしようとしているかという深い構造的問題を提示している。



