ハンセン病療養所退所後も問題と向き合う竪山勲さん、父との最後の夜
ハンセン病療養所退所後も問題と向き合う竪山勲さん、父との最後の夜

ハンセン病違憲国賠訴訟の全国原告団協議会会長を務める竪山勲さんは、2001年5月の熊本地裁判決以降、法的な問題が劇的に解決へ向かったと振り返る。ハンセン病補償法の成立、東日本訴訟や瀬戸内訴訟の和解、国との基本合意書の調印などが相次いだ。

退所後の活動と家族訴訟

竪山さんはこれらの進展を見届け、2004年5月に星塚敬愛園(鹿児島県鹿屋市)を退所。同年9月には支援者だったあき子さん(73)と結婚した。歯に衣着せぬ物言いで“武闘派”と呼ばれた夫を、あき子さんは「いつも怒っているように見えるけれど、裏表のない真っすぐな人」と評する。

退所後も全国原告団協議会の事務局長などとしてハンセン病問題と関わり続けた。隔離政策で家族も差別や偏見を受けたとして、元患者の家族が国に損害賠償などを求めた「家族訴訟」では、顧問として原告団を支えた。

家族訴訟の勝訴と父との記憶

2019年6月の熊本地裁判決は、「隔離政策は、家族が偏見差別を受ける社会構造を形成した」と国の責任を認め、原告の勝訴となった。「年の離れた兄弟」のように付き合った原告団長の林力さん(2025年に101歳で死去)らと喜びを分かち合った。

家族のつらさは身に染みて分かる。ハンセン病で自宅療養していた母は11歳の時に死去。13歳で隔離され、父とも切り離された。入所から1年ほど過ぎたある日、一度だけ外出を許可された。「喜んでくれるだろう」と父の好きだったたばこを手土産に自宅に向かった。

暗くなるまで山中に隠れ、人目を避けて家に入ると、父は悲しそうな顔で「世間体があるから、もう帰ってきてくれるな」と言った。その夜は自宅に泊まった。冷えた手足を父は体で温めてくれた。それが最後の一時となった。その約6年後に父は亡くなった。

遺骨への思いと講演活動

「息子に『帰ってくるな』と言うのはつらかっただろう。恨んだことは一度もない。父と母の子に生まれてよかった」。父や母の元に、空を飛んで帰る夢を何度も見た。

全国の療養所の納骨堂には、死してなお故郷に帰れない約1万6600柱の遺骨が眠る。「全ての遺骨がふるさとに帰るまで、尊厳が回復したとは言えない。亡くなった入所者の思いも背負い、伝え続けることが使命だ」。隔離がもたらした悲惨な歴史を語り、教訓を次世代に伝えようと講演も始めた。