福岡県政界で長年「県議会のドン」と呼ばれた蔵内勇夫氏(72)が、金銭授受疑惑の渦中で議員辞職に追い込まれた。蔵内氏は麻生太郎元首相や武田良太元総務相と並び「新・三国志」と称された実力者で、県議会議長、世界獣医師会長などを歴任した。その歩みをたどる。
県議会の「総合演出」兼「監督」
「求心力落ちたっていいじゃない。議会が活性化して改革が進めば。僕の福岡県議会じゃないんだから」。8月10日、福岡県議会の会議室で報道陣から求心力の低下を指摘されると、蔵内氏はこう答えた。この時はまだ、2週間後に県議会の「ドン」が県政を去るとは誰も思っていなかった。
蔵内氏が大きな影響力を及ぼしてきた県議会を、地元・筑後市の関係者は「蔵内王国」と表現する。象徴的な出来事が2024年3月15日にあった。県議会のロビーに万歳三唱が響き渡り、自民県議だけでなく他会派の県議や県職員100人以上が、蔵内氏の世界獣医師会次期会長選出を祝福した。「祝 PRESIDENT ELECT(次期会長) 蔵内勇夫」と書かれたパネルを掲げて記念撮影し、花束も贈られた。
ある自民県議は24年9月の朝日新聞の取材に、蔵内氏の政治手腕について「蔵内氏は県議会の『総合演出』兼『監督』。皆は与えられた役割を精いっぱい演じている」と語った。
「クリーン」掲げて県議選に
蔵内氏は1953年生まれで筑後市出身。地元の後援会関係者によると実家は酒屋で、子ども時代は「やんちゃな性格」だったという。自民党の衆院議員・参院議員だった蔵内修治氏の秘書を務め、1983年に県議選(筑後市選挙区)に無所属で初出馬した。当時の支援者は、選挙戦で「若さとクリーン」を標榜していたと振り返る。
演説会で蔵内氏は「道で子どもが声をかけてきて、『おじちゃん選挙落ちるよ。だってお金持ってないじゃない』と言われた。私は対立候補みたいにお金はない」というエピソードを披露していた。別の支援者は「演説はうまいし、元気で度胸もあってはきはきしゃべって。良い候補が来たと思った」と話す。
この県議選では落選したが、次の87年の県議選で社会党推薦を得て初当選した。91年の県議選は自民推薦を得て無所属で、95年の県議選は自民公認となり、それぞれ無投票当選を果たした。ある自民県連関係者は「筑後市選挙区は1人区。無所属でもイデオロギーに違いがなければ、しばらくすれば自民党の議員になるのは自然な流れだった」と話す。
要職歴任と広がった違和感
蔵内氏は2001年に議長、03年には自民県議団会長に就任。会長職は12年にわたって務めた。国会議員も所属する県連で、県議ながら会長を約4年担い、21年の県知事選では副知事だった服部誠太郎氏の擁立を主導した。25年には2度目の県議会議長となり、全国都道府県議会議長会会長にも就いた。
評価する声も多い。「恩義を忘れないでいてくれた」と語る後援会幹部は、八女市などが甚大な被害を受けた12年の九州北部豪雨で、蔵内氏が熱心に復旧に取り組んだと振り返る。別の自民県議は「厳しい支配はあるが、懐が深い。人の良さがないと下もついていけない」と話し、他党のベテラン県議も「『信賞必罰』を徹底している。見習うべきところは多い」と評価していた。
一方で、長く支えてきた支援者の中には違和感を抱く人もいた。蔵内氏が県議7期目となった14年秋、後援会幹部だった男性は「日本獣医師会長にまでなって、県議は後継に譲る時期になったんじゃなかか。もう辞めた方が良か」と進言した。男性は「この男は県民のためにならないと思った」と不信感を募らせ、後援会を離れた。
16年の福岡6区補選をきっかけに蔵内氏とたもとを分かった元支援者は「客観的に助言をくれる人も周囲にいなくなっていた」と振り返り、「一人の政治家に権力が集中すると、もうその政治家の意に沿わないことは言えなくなる。それが一番の問題だ」と指摘する。
辞職した8月25日、蔵内氏は朝日新聞の取材に「批判はずっと出ているし、今後も出るでしょ。批判は批判で、受け入れる」と語った。相次ぐ一連の疑惑によって、蔵内氏をはじめとする県政に厳しい視線が向けられている。



