秀吉最初の京都の城「妙顕寺城」、素掘りの外堀跡を初確認 急造の拠点か
秀吉最初の京都の城「妙顕寺城」、素掘りの外堀跡を初確認

豊臣秀吉が京都で最初に築いた拠点とされる「妙顕寺城」(京都市中京区)の外堀が初めて確認された。秀吉が手がけた同時代の大坂城や聚楽第では堀に石垣が用いられているが、今回見つかった堀は素掘りだった。専門家は「秀吉が一時的な居所として急造した施設だったのではないか」とみている。

発掘調査で確認された外堀の規模

民間調査会社「文化財サービス」が3~8月に妙顕寺城跡と推定されるマンション建設予定地を発掘調査した。外堀は油小路通の東側に沿って南北方向にあり、幅約5メートル、深さ約1.4メートルで長さ約5メートル分を確認した。城の西辺にあたり、石垣の痕跡は見つからなかった。

妙顕寺城は、本能寺の変の翌年の1583年、秀吉が法華宗寺院・妙顕寺を移転させて京都での自身の居城として築いた。貴族らの日記などに記述があるが、城の遺構は2024年に確認された池跡だけで実態はほぼわかっていなかった。

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聚楽第造営との関係と主導権争い

1585年に関白となった秀吉は翌年、同城の完成から間もない中、平安宮跡に城郭式の邸宅兼政庁・聚楽第の造営に取りかかる。過去の調査で聚楽第の堀は幅40メートル以上あり、建物には金箔瓦が多用されていたことが知られる。87年に秀吉が聚楽第に入城後、妙顕寺城は使われなくなり堀も埋められたと考えられている。

秀吉は当時、徳川家康らと主導権争いを繰り広げており、中井均・滋賀県立大名誉教授(日本城郭史)は「京都で拠点を初めて造るにあたって急ぐ必要があり、素掘りの堀だったのではないか。聚楽第の造営が念頭にあり、暫定的な位置づけだったのかもしれない」と話す。京都市文化財保護課の馬瀬智光・担当課長は「堀が素掘りで標準的な規模だったことに驚いた。洛中に築く際に制約があったのかもしれない」としている。現地はすでに埋め戻されている。

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