広島と長崎で2度被爆した「二重被爆者」の一人で、青森市在住の福井絹代さん(96)が6日、広島原爆忌に合わせ、14歳だった当時の体験を市内で語った。被爆した子どもたちの姿が「今も夢に出る」といい、「戦争も核もやめてほしい」と訴えた。
被爆の瞬間と避難の記憶
福井さんは長崎市生まれ。造船所に勤める父親の仕事の都合で1944年に広島市へ引っ越した。自宅は原爆ドームから約1.8キロの場所にあり、父が出征した後は2歳年下の弟・相川国義さん(2017年に死去)と2人で暮らしていた。
1945年8月6日午前8時15分、広島に原爆が投下された瞬間、福井さんは庭で洗濯物を干して家に入るところだった。「ピカッと光ったら、爆風で家が潰れて下敷きになっていた」と振り返る。
国義さんに引っ張り出され、周囲を見渡すと街は壊滅していた。近所で生き残ったのは数人だけだった。「お母さん、お母さん」と呼ぶ子どもの背中は、皮がはがれ落ちていた。
7日、瀬戸内海の似島に避難した2人は、兵士からけが人の手当てをするよう指示された。体に湧くウジを箸でつまんで取ったが、「いくらでも湧くのが怖かったし、切りがなかった」という。
長崎での2度目の被爆
広島にいてはどうにもならないと、弟と2人で親類がいる長崎に帰ることにした。9日、乗り込んだ列車は長崎市郊外の道ノ尾駅付近で停車する。午前11時2分に2発目の原爆が長崎でさく裂したためだ。
市中心部に向けて歩き始めると、線路には、力尽きた被爆者の死体が折り重なっていた。「ごめんなさい、と言いながら死体をまたいだり踏んだりして進んだ。何年たっても足の裏の感覚が消えなかった」と語る。
戦後の苦しみと現在の思い
長崎で親類や復員した父と再会した福井さんは戦後、上京して青森県出身の男性と結婚し、1男1女をもうけた。県内に移住してからも、原爆のことはほとんど話さなかった。長崎出身とわかるとみんな変な顔をするのが耐えられなかったからだ。
被爆の影響で左耳の聴力がほぼ失われたほか、30歳頃から原因不明の体調不良で入退院を繰り返した。被爆者に交付される被爆者健康手帳を知ったのは30歳代後半の頃で、1965年に広島の被爆で取得。2019年には長崎での被爆も認められた。
現在も世界各地で戦争が続く。福井さんは「14歳と12歳で逃げたあの時は本当に恐ろしかった。一番かわいそうなのは残された子どもたちで、だからこそ、戦争も核もやめてほしい」と願っている。



