仙台空襲で姉失った医師、戦争のむごさ訴え 盛岡・坂さん
仙台空襲で姉失った医師、戦争のむごさ訴え 盛岡・坂さん

米軍の爆撃機から約1万3000発の焼夷弾が投下され、約1400人が犠牲になった仙台空襲から今夏で81年。空襲で姉を失った盛岡市三ツ割の坂正毅さん(88)は、医師として命の尊さと向き合いながら、戦禍の記憶を伝える活動を続けている。「戦争は想像以上に厳しく、むごく、むなしいもの。二度と繰り返してはならない」と訴える。

姉を失った夜

1945年7月10日午前0時過ぎ、仙台市の市街地に空襲警報が鳴り響き、米軍のB29爆撃機123機が上空に姿を現した。当時7歳だった坂さんは、枕元のリュックを手に母親のキンさんと小学6年の兄、小学3年の姉とともに自宅敷地内にある防空壕に逃げ込んだ。しかし、火の手が迫り外に出たところ、当時15歳だった長女の秀子さんがいないことに気がつき、キンさんは燃え盛る家に戻った。

坂さんは近所の若い夫婦に連れられ、約20キロ離れた夫婦の実家に向かった。途中で空を見上げると、赤い炎を引きながら焼夷弾が降り注いでいた。「自分のところに落ちるかな」「もうだめだ」。坂さんは土手をはい、建物のすき間に隠れ、倒れている人を避けながら、必死に前に進み、夫婦の実家にたどり着いた。

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焼夷弾への怒り

翌日に自宅に戻ると、別々に避難した兄や姉、キンさんは無事だったが、秀子さんは焼夷弾が頭に落ちて亡くなっていた。玄関の焼け跡で焼夷弾の弾頭が見つかり、坂さんは毎日のように秀子さんの命を奪った憎い焼夷弾を地面にたたきつけ、悔しさをぶつけた。父・英毅さんの部隊は、フィリピン・ルソン島近くの島で玉砕し、形見として白い石が一つ入った木箱のみが残った。

坂さんは高校2年の時、「戦争で死んでいった人たちのため、命を救うことが一つの供養になる」と医師を志し、岩手医科大に進んだ。内科医になったのは「人と向き合って命を救いたい」という思いから。現在も盛岡市内の病院などで患者の健康を守る。

記憶の継承をライフワークに

戦争体験者の一人として、「伝えていくことが使命だ」と思い立ち、約25年前に医師でつくる「県反核医師歯科医師の会」を結成。2代目の事務局長を務め、盛岡市を中心に原爆展や講演会などを精力的に開催してきた。戦後81年が経過し、戦争体験者が減っていく中、「戦争をリアルに感じることができる世代は減っている」と感じる。手旗信号や剣術などの軍事訓練を受ける兄たち、戦地に赴き命を落としていった青年――。戦時中の記憶が今も脳裏に焼き付く。

「戦争反対」を伝えたいという思いは年々強まり、最近は講演会などで自身の戦争体験を発信するようになった。7月には盛岡市のトーサイクラシックホール岩手(県民会館)で約70人の聴衆の前に立ち、戦火に包まれた街や、戦後の路上生活など戦争のリアルを伝えた。「若い人が知ろうとする姿勢は見ていて胸に響く。太平洋戦争で日本が歩んだ道をしっかりと振り返りながら話し合い、平和を考えていかなければならない」と坂さん。今後も医師と並行し、記憶の継承をライフワークとして続けていく。

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