被爆2世の下斗米さん、母の手記で原爆の惨状語る 二戸市で追悼式典
被爆2世の下斗米さん、母の手記で原爆の惨状語る

二戸市で8日に開かれた原爆死没者の追悼式典で、盛岡市の下斗米直子さん(64)が「唯一の戦争被爆国だからこそできることがある」と訴えた。広島市で被爆した母・洋子さん(昨年5月に96歳で死去)の遺志を継ぎ、原爆の恐ろしさを語る活動を始めて2年目。被爆2世として、そう遠くない「被爆者なき時代」を見据えながら、母の体験談の伝え方を模索している。

講演会で約40人に訴え

9日には高校生と被爆2世の講演会に登壇し、約40人の聴衆を前にマイクを握った。広島市で今夏開催された平和記念式典に出席し、過去最多となる122の国と地域などの代表が参列したことを踏まえ、「今世界中から(核兵器廃絶への)関心が集まっている。小さなことを積み重ねれば、大きな渦になる」と足元の取り組みの大切さを強調した。

母の手記が伝える地獄の光景

1945年8月6日。広島大教授の祖父・直昌さんと、高等女学校に通う洋子さんは、爆心地から約3キロの広島市牛田地区の自宅で被爆した。洋子さんは、帰宅直後に原爆の閃光を目撃した時の様子を手記に残した。

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「目の前で真っ白い火の玉のように光った。天井板、襖が頭上に落ちてきて、下敷きになりました」(手記より)

がれきのすき間からはい出て、家族と互いの無事を確認した直後、地獄のような光景が広がっていた。

「腕の皮が剥がれて垂れ下がっている人、顔はやけどで腫れて区別がつかない人々が声も出さず途切れる事もなく、まるで死者の行列の様に歩いてきます」(手記より)

周囲からは水を求める声が聞こえ、同級生らも学徒動員先の工場で被爆するなどし、1週間のうちに19人が亡くなった。直昌さんはその後、皮膚が黄色くなる「黄だん」が出たため、家族でシジミを取ってエキスを飲ませた。

伝え方の試行錯誤

直昌さんは定年後、地元の二戸市に戻った。被爆体験を進んで語りたがらず、1989年に89歳で亡くなった。一方、洋子さんは県原爆被害者団体協議会の講演会に足を運び、長年にわたり当事者として原爆の脅威を訴え続けた。下斗米さんは中学校の国語の教諭として勤める傍ら、送り迎えで母の活動を支えた。ただ、洋子さんは10年ほど前に認知症を患い、晩年は人前で語ることがないまま息を引き取った。下斗米さんは、被爆者を支える県被団協会員の姿に胸を打たれ、「母の体験を語り継ごう」と決意した。

下斗米さんの頼りは、洋子さんが残した手記の数々。当時の写真や取材を受けた新聞記事など整理しきれていない資料もある。戦後81年を前に、当事者が次々と鬼籍に入る中、「自ら知ろうとする努力が求められる時代に突入した」と危機感をあらわにする。祖父や母は核兵器や平和について、どう考えていたのか。時代と共に変わるものと、変えてはならないものとは――。戦禍を経験していない2世として、試行錯誤が続く。

「細かい部分まで事実を学び、五感に語りかけるようにあの日の臨場感を高めたい。これからを担う世代の心に響くような継承こそが、被爆2世の使命」と下斗米さん。祖父や母のような被爆者を二度と生まないために語り続ける。

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