終戦から81年となった。川崎市麻生区に住む曽武川重春さん(94)は1945年、東京都内で3回の空襲を経験した。今も当時の記憶は鮮明で、「嫌なもんだよ、あの戦争って言うのは。もう二度と起きてほしくない」と反戦の思いを語る。
13歳で東京大空襲を経験
曽武川さんが13歳の時、東京大空襲に見舞われた。1945年3月9日の夜中、本郷(現・文京区)の長屋に警報が響き渡った。警報は毎日のように鳴っていたが、その日はいつもと違った。
普段は高い場所を飛ぶ米爆撃機B29が20~30機、低空飛行してくるのが見えた。焼夷弾を落とし、その明かりがB29の操縦席の米兵の姿を浮かび上がらせた。一家は近くの東京大学の敷地内に逃げ込み、長屋が燃えていくのをただ眺めるしかなかった。
防空壕も役に立たず、焼け野原に
一家は東京大空襲後、小石川の家に移り住んだが、4月に再び空襲の被害に遭った。防空壕に逃げ込むと、突然の猛烈な揺れに襲われた。母親が覆いかぶさってくれたほかは、何が起きているのかわからなかった。壕から出ると辺り一面焼け野原になっていた。後になって、隣の防空壕に焼夷弾が直撃していたと知らされた。
「実際に空襲を受けたら、防空壕なんて何の役にも立たない。全員、即死だっただろうね」と曽武川さんは振り返る。
山の手空襲で焼け野原、黒焦げの死体
一家は茨城県に一時疎開した後、東京・青山の家に移った。まもなく5月25日深夜の「山の手空襲」で赤坂、青山の大半が焦土と化した。この空襲では3000人以上の命が失われたとされる。
空襲から1週間たっても火は消えず、青山の街には黒焦げの死体が転がっていた。トラックが大量の死体を運び去る様子や、黒い物体を抱えた母親の遺体を目にした。
音楽家の夢を失い、戦後を生きる
曽武川少年の夢は音楽家だったが、戦争がその夢をかき消した。終戦後は父親の板金工場で働きながら夜間学校に通い、電気の技術や簿記を学んだ。「時代に振り回されてきた」と振り返る。
現在は一人暮らしをしながら、時々老人ホームで横笛を披露する穏やかな生活を送っている。「子どもたちには、夢を追いかけてほしい。戦争は怖いものだから」と願いを託す。今年も終戦の日を迎え、「また一年が無事に過ぎた。もう戦争が起きないように。世界中の若者が、戦争反対と声をあげてほしい」と祈った。



