終戦から81年となる15日、東京で行われる全国戦没者追悼式に、滋賀県内から50人が出席する。最年長の原田晴雄さん(94)(草津市若草)は、国に工員として徴用された先の名古屋で亡くなった6歳上の兄・善夫さんを思い、10年ぶりに参加する。「生きていたら今年で100歳。兄貴のために、ここまで長生きできたと伝えたい」と話す。
兄が語った「地獄を見てきた、もう戻りたくない」
原田さんは7人きょうだいの五男。四男の善夫さんは体格が良かったが、近視のため徴用工となり、名古屋の工場に勤めていた。
1945年7月半ば、休暇で近江八幡市の実家に戻った善夫さんは暗い顔をしていた。工場で爆撃を受けて犠牲になった徴用工らの遺体収集に駆り出されていた。爆発で地面に開いた穴から竹ざおを使って遺体を引きずり出す。正視するのもつらかったのだろう。「地獄を見てきた、もう戻りたくない」。そう繰り返していた。
再び名古屋へ向かった兄、そして爆撃
「自分もいずれああやって死ぬことになる」。再び名古屋に向かう兄に、「また手紙書いてや」とお気に入りの万年筆を手渡した。
約1週間後の7月24日。琵琶湖の上を通り、名古屋方面へ向かう爆撃機の群れは空一面を覆うほどだった。「どうか無事で」と願うしかできなかった。その一群だったかはわからないが、工場付近は爆撃を受けた。そして、善夫さんは亡くなった。
遺品に残された死を覚悟する言葉
三男とともに工場に向かった。損傷の激しい遺体が多かったためか、いくつもの小さなひつぎを目にした。警察からは「見ない方が良い、一生忘れられなくなる」と言われ、兄の最後の姿を見ずに、遺骨を持ち帰った。
遺品となったかばんには、ぺちゃんこになった万年筆と血で貼り付いた手帳があった。「兵隊で死んだら大手柄だが、徴用で死んでも何もない」「バンザイで送り出してもらったのに残念だ」――。手帳に残された死を覚悟する内容に、「絶対かたきをとってやる」と決意した。だが、約3週間後、戦争は終わった。
戦争の悲惨さを次世代へ
昨春、脳梗塞で入院を経験した。「元気な間にもう一度」と思いが強まり、2016年に続き、追悼式に再び参加することを決めた。
「兄貴はもっと生きたかったと思う。国のために死ぬのがあたりまえという教育、戦争の苦しさを、今の若い人たちに経験してほしくない」。戦後81年となり、悲惨さを知る人が少なくなる中、思いは子や孫、ひ孫へと引き継ぐつもりだ。



