終戦から81年を迎えた15日、6歳で父・永蔵さんを失った札幌市清田区の永田信良さん(90)が、日本武道館(東京)で開かれる全国戦没者追悼式に参列する。大切な父親と戦没者に祈りをささげる。
志願し中国へ、鉄道員として任務に就く
永蔵さんは信良さんが生まれた1935年、追分町(現・安平町)で鉄道員として働いていた。信良さんは「昔の人間らしい、厳しく怖い父親でした」と振り返る。両親と5人きょうだいで暮らす日々は穏やかだったが、日米開戦の足音は静かに近づいていた。
「お国のため志願して戦争に行かなければならない」。鉄道員として奉仕しようと、日中戦争下の40年8月、永蔵さんは単身で中国・上海に渡り、「華中鉄道」に入社した。翌年4月、永蔵さんは家族を呼び寄せたが、自宅へ帰るのは2、3日おき。昼夜を問わず、鉄道運営や前線の戦傷者を陸軍病院に輸送する任務も担っていた。
地雷で両足を失いながらも任務を遂行
42年5月3日午前3時42分。この日も永蔵さんは戦傷者を送り届け、帰路についていた。ところが暗闇の中突然、線路に設置された地雷が爆発した。輸送車は脱線し、永蔵さんの両足は一瞬にして吹き飛んだ。それでも永蔵さんは指揮官として任務を続けたというが、治療もむなしく18日、命を落とした。34歳だった。
永蔵さんが亡くなった後、家族が受け取った弔詞にはこう記されていた。「地雷轟然ト爆発シ……瀕死ノ重傷ヲ負ヒタリ。然レドモ責任観念旺盛ナル君ハ重傷ニモ屈セズ……任務ヲ遂行セリ」。信良さんは「けがをしても職務をやり遂げたのは、真面目で責任感の強い父らしい」と語る。
残された家族の苦難、平和への願い
残された家族は上海から輸送船で長崎を目指した。揺れる船内で信良さんは救命具を強く握り締め、無事に帰れるよう祈り続けた。帰国後は母の故郷、由仁町に身を寄せたが、戦時下の厳しい時勢に翻弄される。
病院にかかれず、妹と兄が立て続けに病気で亡くなった。昼は田植え、夜は洋裁で生計を支えた母は過労の末、44歳でこの世を去った。信良さんは「母から泣き言を聞いたことは一度もなく、気丈だった」としのぶ。両親を早くに亡くしたが、親族や周囲の支えのおかげで不自由のない生活ができ、2人の娘にも恵まれた。「よくここまで生きてこられたものです」。苦労した家族のことを日々、心に留めながら暮らしている。
世界中で戦禍が続く中、信良さんは「どうして戦争なんてするのか」と重い問いを投げかける。「戦争がなければ父は生きていた。人が人を殺し、誰かが不幸になる戦争は終わりにしてほしい」。終戦の日、悲しみを知る一人として、全国から集まった遺族らとともに、平和を願う。
道内の遺族会、高齢化で存続危機
道内の戦没者遺族は高齢化が進んでおり、遺族会の活動継続や体験の伝承が課題となっている。北海道連合遺族会(旭川市)によると、2025年度の会員数は3199人で、2005年度(1万2947人)の4分の1まで減少。各地の遺族会も解散や合併が相次ぎ、今年3月末時点で125団体に減っている。
戦没者の子の平均年齢は87歳前後とされ、語り部活動の人材確保が急務だ。同会は小中学校などで戦争の悲惨さを伝える「平和の語り部事業」に力を入れ、戦争体験者らと若い世代が一緒に活動する機会を作ることで、語り部の後継者を増やそうとしている。道連合遺族会の大島範男事務局長(80)は「語り部の後継者不足は深刻で、今何ができるか考えていきたい」と話す。



