満州(現中国東北部)で生まれた米子市三旗町の久保田美雄さん(89)は、終戦後、現地で旧ソ連軍の侵攻を受け、集団自決を迫られる体験をした。戦後81年を経ても、その時の記憶は生々しく残る。日本の傀儡国家として、中国人を抑圧していた「故郷」の思い出は、心苦しさと悲しみ、そして哀愁に彩られている。
一変した暮らし
久保田さんは満州国の首都・新京(現・長春)で生まれた。松江市出身の父は、発電所の技師として働き、大連や阜新などを転々とした。「当時は、ヨーロッパのような洋風建築があふれる豊かな町だった。戦争の影響を感じることはほとんどなかった」と振り返る。
1945年8月15日、久保田さんが阜新の家にいると、父が慌てて帰ってきた。「戦争が終わったらしい」。ラジオで玉音放送を聞いていた父がつぶやいた。直前には日ソ中立条約を破って、ソ連軍が満州に侵攻を開始。しばらくして、事態は一変した。8月下旬になると、追いやられた中国人の民衆が日本人住宅を襲った。父の会社の別の寮に移ったが、カーテンの隙間から、鋭い目つきの人たちが、衣類や家具、窓枠まで持って行く様子を見た。
「明日はここも襲われる」。さらに南に1キロ・メートルほどの阜新の火力発電所に、約300人の日本人が深夜、着の身着のまま逃げた。久保田さんは父の手をつかんで逃げていると、片足の靴が脱げた。「お父ちゃん、靴が脱げた」「靴なんてどうでもいい!」必死に走る父に、付いていくのに必死だった。
集団自決を覚悟
安全と思われた発電所にも、自動小銃を持ったソ連兵が「女を出せ!」と押し寄せてきた。人々は部屋の中で、若い女性を中心に集め、車座になって抵抗した。しかし、1人の女性が引っ張り出された。女性は逃げ回ったが、発電所の窓から飛び降りて自殺した。
「これ以上は生きていられない」。避難していた人は皆、高圧電線を使った集団自決を決意。白いはちまきをして、別れのあいさつをした。だが、この計画を聞いた別の発電所長が、阜新への電気を切断。技術者を利用したかったソ連軍の将校も説得に駆けつけ、事態は収束した。
久保田さん家族は大連に戻った。父親は中国人技術者を育成するため、とどまることになり、久保田さんは残留家族の子を対象にした学校に通った。そして49年9月に家族で日本に戻った。
数十年ぶり訪問
「満州とは自分にとって何だったのか」。帰国後、久保田さんは考え続けていた。関東軍が満州で中国人にしたことを思うと、故郷と言えないもどかしさがあった。テレビ局に勤めていた30歳代の頃、中国のことを知ろうと言葉を習い始め、50歳代になってから、中国東北部に度々行くようになった。
両親には「中国人としゃべるな」と言われていた。だが、それは間違いだった。数十年ぶりに訪れると皆、向こうから親しく話しかけてくれた。「国関係なく、その人を知ることが大事で、それは、とても楽しいこと」。笑顔の現地の子どもたちと一緒に写った写真など、訪れた時のことを記録に残しておこうと本にまとめた。
最近になってようやく、遠慮することなく「満州は故郷」と言えるようになった。ただ、故郷には親戚も友達もおらず、寂しさはある。「日本の言語や文化を強要するようなむちゃくちゃなことはしてはいけなかった。人間のやることは恐ろしい」と思う。今でも他国を侵攻する動きが絶えない。「排他的になって争うのではなく、違いを認める。どんな時代でも大切なこと」。瞳には平和への強い願いがにじんだ。



