戦後81年「帰還」① 満州「宮城村」から逃避行、弟妹犠牲 早川さん(91)が語る
戦後81年「帰還」① 満州「宮城村」から逃避行、弟妹犠牲

太平洋戦争の敗戦で、満州(現中国東北部)にあった「宮城村」からの引き揚げを余儀なくされた県民がいた。石巻市錦町の早川豊美さん(91)は、生死が隣り合う逃避行を乗り越えて生還した。弟妹3人を栄養失調などで失い、母とは今生の別れとなった。

夢見た「宮城村」

早川さんは1935年に粕川村(現大郷町)で生まれ、39年に父源四郎さん、母とみさんらと満州へ移った。「広い土地で大地主になれる」という国のうたい文句に引かれた父の決断だった。一家が居を構えたのが宮城村で、現在の中国黒竜江省佳木斯市に位置する。

村の記録誌「満洲開拓第六次 宮城村」によると、県の分県として30年代後半に入植が始まり、終戦時は193戸約770人が住んでいた。名取や登米など12集落と本部があり、寄宿舎付きの学校や診療所もあった。早川さん家族は中国人を雇ってトウモロコシやジャガイモを育て、農地の開拓は順調だった。

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命をかけて南へ

45年8月9日、ソ連が満州に侵攻し、状況が急変。宮城村に馬に乗った役人が来て「南へ逃げろ」と叫んだ。軍に召集されていた父を除き、母と5人のきょうだいでの逃避行が始まった。

駅では蒸気機関車は逃げる日本人で満員。3日ほどたって貨物の上に乗り込んだ。途中、ソ連兵が「女を差し出せ」と要求する場面もあった。後に暴行があったと聞かされた。弟妹3人が栄養失調などで相次いで亡くなり、遺体は線路に置いたり、穴に埋めたりした。「生きるのに必死で、悲しいとさえ思えなかった」と振り返る。

母との別れ、そして帰国

帰国を目指す途中の新京(現・長春)で46年6月頃、母が伝染病にかかった。母は早川さんだけでも日本に帰そうと親戚に頼んだがかなわず、一家は中国に残った。母は中国人男性と再婚。安全と食料を確保するためだった。早川さんも工場で働き、中国語を覚えた。

53年に帰国した早川さんは、これが母との今生の別れになった。母は生涯で計13人の子どもを育て、53歳で中国で亡くなった。帰国後は仙台市内の高校を卒業し、石巻市内の造船会社に定年まで勤めた。定年後は中国残留孤児・婦人の支援に10年以上携わり、「日本語も中国語も話せる自分にしかできない」と語る。

「苦労したんだあ。満州に渡るときは、みんな夢を持っていたのに」。早川さんは引き揚げを思い出すたび、涙が出そうになる。

満州からの引き揚げの実態

満州には企業人や開拓民など多くの日本人が移り住み、厚生労働省によると終戦時には民間の日本人が約155万人いたが、日本に引き揚げられたのは約122万人とされる。農業移民は全国から約27万人が送り出され、県内からは約1万2000人が渡ったとする資料もある。開拓団はソ連国境近くで逃避行を余儀なくされ、約8万人が亡くなったとされる。引き揚げは46年5月に始まり、葫蘆島や大連から博多港などへ向かった。

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