戦争の記憶、語り継ぐ 俳優・加納桂さん(98)「二度と戦争を起こしてはいけない」
戦争の記憶、語り継ぐ 俳優・加納桂さん(98)

映画黄金期の東映や日活で俳優として活躍し、60歳代からはシャンソン歌手としても活動してきた岐阜市在住の加納桂さん(98)は、16歳の時、1945年の「各務原空襲」と「岐阜空襲」の二つの空襲を経験した。兄2人を戦争で亡くすなど、戦争は人生に暗い影を落とした。終戦から81年が経ち、加納さんは「二度と戦争を起こしてはいけない」と語気を強めた。

奪われた日常と兄たちの死

加納さんは岐阜市出身。物心がついた時から芝居が好きで、毎週のように映画館に足を運んでいたが、1941年12月に太平洋戦争が始まり生活が一変した。食べ物や日用品がない苦しい日々が続いた。

大好きだった長兄の輝男さんは軍医として東南アジアに徴兵され、絵はがきや手紙で無事を知らせてくれたが、いつしか届かなくなり、ついに訃報が届いた。母のアキさんは「輝男が死んでしまった」と亡くなるまで口にした。さらに、出征していた次兄の勝嘉さんも南方で戦死したとの知らせが届いた。

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空襲の記憶

1945年6月下旬、学徒動員で現在の各務原市にある爆撃機の製造工場にいた時、警戒警報が鳴った。各務原空襲だった。近くの丘に避難すると、爆弾が雨のように降り、地面で炸裂した。大地震のような揺れにうつぶせになり、攻撃が収まるとすぐに山へ走った。工場の近くには爆弾による無数の大きな穴ができていた。

約2週間後の7月9日、自宅で岐阜空襲の警戒警報が響いた。家の近くの塀に沿ってしゃがみ、布団をかぶると、焼夷弾が提灯のようにゆらゆらと落ちてきた。「カランカラン」という落下音は今も耳から離れない。空襲で丸焦げになった死体がずらりと並ぶ横を、人々が平然と歩いていた光景も忘れられない。「今だったら死体が1体でもあれば大騒ぎだけど、みんな平気な顔をしていた。感覚が麻痺していたんでしょう」と振り返る。

戦後を生き、語り継ぐ使命

戦後、加納さんは20歳代前半で上京し、俳優として活躍。石原裕次郎とも共演し、テレビや映画に数多く出演した。華やかな世界に身を置いたが、心の中には常に「戦争」が尾を引いた。

60歳頃、兄ら多くの日本人が戦死した場所を見ておきたいと、遺骨収集の形でフィリピンを訪れた。兄が戦死したと思われる海は穏やかで、戦争があったとは信じられなかった。「こんなところで兄は死んだのか」と光景を目に焼き付け、花束を海に投げ、手を合わせた。

戦後81年を迎え、戦争体験者の記憶や声が語り継がれないことに危機感を抱く。「正しく知らないと、めちゃくちゃな時代に戻ってしまう」と悲惨な記憶を話してきた。「語れるのは自分の世代が最後。戦争だけは二度と繰り返してはいけない」と伝えるのが使命だと信じている。

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