三重県御浜町の川島瑞代さん(97)は、大切な一人息子を戦争で失った母の気持ちを思うと今も胸が痛む。その死を受け入れられず、葬式をあげることができないほど憔悴した母。終戦から81年が過ぎ、「戦争で得たことは一つもない。絶対したらあかん」と訴える。
優しかった兄、フィリピンへ
川島さんは女5人、男1人の6人きょうだいの末っ子として生まれた。上から4番目の一浩さんは6歳上だった。性格は優しく、近所の男の子たちから慕われるリーダーで、学力は優秀だった。旧宇治山田中学校(伊勢市)に進み、岡山大の前身にあたる第六高等学校(岡山市)に在学中、学徒動員でフィリピンへ出征。1945年に戦死した。
出征の直前、家族や親戚で岡山へ見送りに行き、持参したごちそうを外で広げて食べたことを覚えている。「当時は戦争に行くのが当たり前。悲壮な雰囲気ではなかった」と振り返る。
最期分からず、母は葬儀を拒否
一浩さんからの手紙は一度も届くことがないまま、45年8月の終戦を迎えた。まもなく、戦死したとの知らせが届く。同じ連隊にいて復員した熊野市の男性によると、約10人の部下を連れた姿を45年4月に見たのが最後の目撃情報とのことだった。その最期は誰も分からず、母のくにさんは「絶対死んでいない」と葬式はしなかった。
「このままではかわいそうだ」。姉の発言をきっかけに葬式を行ったのは5年ほどたった頃。近所では「誰が死んだのか」と話題になった。葬式後、くにさんは毎朝仏壇に向かって30分以上大きな声でお経を唱え、家族全員が暗記するほどだった。
「けがをしても帰ってきてほしかった」
一浩さんのめいの阪本浩子さん(84)も、くにさんが悲しむ様子をよく覚えている。終戦後しばらく、白装束の傷痍軍人が寄付を募ろうと代わる代わる御浜町の自宅を訪れていた。
くにさんは背筋を伸ばし、毅然とした態度で「生きて帰って、ようございました」と伝えた。「けがをしても、どんな姿であっても、帰ってきてほしかったという気持ちだったのでしょう」と推し量る。
戦争のない平和を願って
川島さんは戦時中、海軍の軍需工場に動員され、飛行機に使うアルミ板を曲げる作業に従事した。「女学生が作った飛行機で戦争なんかできたんやろうか」と思う。勉強はさせてもらえず、跡取り息子だった一浩さんが亡くなると、家を継ぐことになった。田畑や山林を守るため、牛の扱い方から山の管理までたたき込まれ、特に若い頃は働きづめだった。
「今の若い人たちは戦争を全然知らない。あの頃は勉強もスポーツもできなかった」。戦争を語り継ぐ講演会での朗読などを続ける阪本さんの活動を応援している。



