連載『織田信忠――天下人の嫡男』より、本能寺の変後、信長の嫡男・織田信忠がなぜ落ち延びずに26歳で切腹したのか、その最期の詳細が明らかになった。
本能寺の変、信忠の選択
1582年6月2日、本能寺の変で織田信長が倒れた際、嫡男の信忠は二条御所にいた。周囲から落ち延びるよう勧められたが、信忠は「父の死を知って逃げるは恥」と拒否。明智光秀の家臣らに立ち向かい、数人を斬り倒した後、自ら腹を切った。享年26歳。
歴史学者の和田裕弘氏は「信忠は武勇に優れ、わずか10日で信貴山城を攻略するなど、総大将としての手腕を見せていた。本能寺の変がなければ、天下人として十分に通用しただろう」と指摘する。
信貴山城攻略の手腕
信忠は1581年、松永久秀が籠る信貴山城を10日間で攻略。これは当時としては異例の速さで、信長もその能力を高く評価していた。和田氏は「信忠は父に劣らぬ戦略眼と実行力を持っていた」と述べている。
本能寺の変の直前、信忠は京都の妙覚寺に滞在していたが、変の報を受けて二条御所へ移動。そこで明智軍に包囲され、最後まで戦った。和田氏によれば「信忠は落ち延びる道を選べば、織田家の再興も可能だったが、誇りを選んだ」という。
信長の嫡男としての重責
信忠は信長の後継者として期待され、多くの戦で功績を挙げていた。しかし、本能寺の変で父と共に倒れたことで、織田家は混乱に陥った。和田氏は「信忠が生きていれば、その後の羽柴秀吉の台頭はなかったかもしれない」と考察する。
信忠の最期は、戦国武将の誇りと悲劇を象徴するものとして、今も語り継がれている。



