沖縄県浦添市の大城智子さん(85)は、4歳の時に長崎で被爆した経験を持つ、沖縄では数少ない「語り部」の一人だ。長年、差別への恐れや、沖縄戦の地上戦を経験していないことへの「引け目」から体験を語ってこなかったが、2024年の日本原水爆被害者団体協議会(被団協)のノーベル平和賞受賞をきっかけに、講話を行うようになった。
4歳で被爆、母の手記に基づき体験を語る
大城さんは6月28日、浦添市内の美術館で、来場者33人に向けて「原爆は本当に恐ろしい。二度と私たちのような被爆者を出してはいけない」と訴えた。大阪生まれの彼女は、1945年春に長崎市へ疎開し、8月9日に爆心地から1.3キロの地点で被爆。当時の記憶はないが、母の手記などを基に、倒壊した家の隙間に挟まれて犠牲になった弟や、3か月後に亡くなった祖母のことを語った。
戦後、沖縄で差別を恐れ潜伏
戦後、両親の出身地である沖縄に移住した後も、周囲の視線を気にしながら生きてきた。親戚から「結婚に関わるから、絶対に被爆者だと言ってはいけない」と告げられたことが、常に心にあったという。米国の統治下にあった沖縄では、本土より10年遅れて1967年に被爆者健康手帳の交付が始まった。
夫とは被爆の影響を恐れ、「子どもは絶対に作らない」と約束してから付き合っていたが、娘を授かり育てた。戦争で県民の4人に1人が犠牲になった沖縄では、「原爆への関心は低く、差別を恐れ、被爆者と明かすことはできなかった」と振り返る。沖縄戦体験者と違い、被爆者には援護制度があるため、後ろめたさも感じていたという。
被団協ノーベル平和賞が転機に
沖縄では、大城さんのように体験を明かすことを避けた被爆者が少なくない。沖縄の被爆者を15年ほど研究する多摩大の桐谷多恵子准教授(国際平和論)によると、米軍基地で働く住民が多いため、長年、原爆の話はタブー視されていたという。「周囲に同じ体験をした人もおらず、声を上げづらい環境で生活せざるを得なかった」と指摘する。
大城さんの転機は、2024年の被団協のノーベル平和賞受賞。次の世代に伝えなければならないと積極的に取り組むようになり、昨年以降に行った講話などは20回以上を数える。自身の体験を聞いた学生が涙を流し、「沖縄にも被爆者がいるんだ」と言ってくれたことが印象に残っているという。
県内の被爆者、減少傾向続く
沖縄県によると、県内の被爆者は3月末時点で56人。1991年に最多の388人となったが、年々減少傾向にある。「沖縄は米軍基地が多く、戦争が発生するのではないかとの危機感がある。だからこそ、体験を体力の続く限り伝えていきたい」と、9日の長崎原爆の日を前に、大城さんは思いを強くしている。



