1980年代、中国に留学したジャーナリストの中島恵氏は、当時の生活の厳しさや独特な経済システムを鮮明に記憶している。精米技術が未熟でご飯に小石が混じる中、藁にもすがる思いで買ったパンの味は今も忘れられないという。本稿は中島氏の著書『中国の回鍋肉にキャベツは使わない』(ウェッジ)からの抜粋である。
特権階級だけが利用できる「謎スーパー」
中国でたびたび耳にした言葉は「友誼(友情)」だった。短期留学中、買い物を楽しみにしていたが、当時の北京では日本人が欲しいと思うような品物はほとんど売っていなかった。そんな中、連れて行かれたのが「友誼商店」という奇妙な名前の店だ。日本では「友情出演」という言葉はあっても、店名に「友情」と付くことは珍しく、日本人には怪しげに映る。
友誼商店は1950年代に設立された国営商店で、主に外国人や政府関係者が利用できた。北京のほか上海、天津、広州などの大都市にも存在した。売られていたのは空港の免税店にあるようなタバコ、香水、化粧品、中国酒、刺繍や七宝焼などの特産品で、店内はいつも閑散としていた。特別な人だけが買い物できるという独特の雰囲気があった。
15年間だけ使われた「幻のお金」
一般の商店は驚くほど混雑しており、貴重品を盗まれないかヒヤヒヤしながら歩かなければならなかった。一方、友誼商店は静まり返り、店員は手持ち無沙汰に立っていた。当時の中国らしく、客がいようがいまいが店員同士でおしゃべりし、だらだらとしていてやる気が感じられなかった。お釣りをぶっきらぼうに投げ返される経験や「没有(メイヨー=ない)」攻撃も、この友誼商店で初めて体験したという。
友誼商店で使用できたのは「外貨兌換券」という特殊な貨幣だった。これは中国が外貨を管理するために1980年4月1日から流通させ、1995年1月1日に廃止されるまで15年間だけ使われた外国人専用のお金である。その間、中国を訪れた日本人は必ず使ったことがある。空港で両替するとこの兌換券が渡され、友誼商店だけでなくバスや学食でも使うしかなかった。
木村屋のアンパンと田中角栄の逸話
中島氏は、当時中国にあった木村屋のアンパンにまつわる逸話も紹介している。1972年に田中角栄首相が北京を訪れた際、室温17度の部屋に木村屋のアンパンが置かれていたという。このアンパンは、日本の首相を迎えるための特別な配慮だったが、田中角栄はその背後にある中国側の意図に本気で焦ったとされる。木村屋のアンパンは日本を象徴する菓子パンであり、それを用意することで日本への理解を示すと同時に、中国の管理経済下では入手困難な品を提示することで、日本の経済力に対する認識を暗に示そうとしたのかもしれない。
中島氏自身も、留学中に藁にもすがる思いで買ったパンの味を今でも覚えていると語る。当時の中国ではパンは貴重品で、特に木村屋のアンパンは特別な存在だった。
外貨兌換券の価値と「チェンマネおじさん」
外貨兌換券は、外国人にとっては必須の通貨だったが、中国人が持つことは難しく、闇市場で高値で取引されることもあった。中島氏は、しつこく「チェンマネ(お金を換えて)」と迫る「チェンマネおじさん」に遭遇した経験を述懐する。彼らは外貨兌換券を欲しがり、人民元との両替を懇願してきたという。これは、当時の中国で外貨がどれほど貴重だったかを物語っている。
都市部では1990年代前半にようやくベーカリーが登場し、一般の人々もパンを気軽に買えるようになった。それ以前は、パンは外国人や特権階級だけのものだったのだ。
経済成長が変えた中国の食生活
中島氏は、約40年前の留学当時と現在の中国の違いを強調する。経済成長によって中国人の生活は急激に変化し、食生活も多様化した。回鍋肉にキャベツが使われるようになったのもその一例だ。かつては中国の回鍋肉にキャベツは使われなかったが、今では一般的なアレンジとして定着している。この変化は、食材の入手が容易になり、料理のレシピも柔軟に変化したことを示している。
中島恵氏の体験は、中国の急速な近代化と、その中で消えていった独特の経済システムや生活様式を鮮やかに描き出している。



