1993年春、経営難に陥っていた兵庫銀行の再建を担うため、大蔵省は元銀行局長の吉田正輝を次期社長として送り込んだ。しかし、吉田が就任後に知らされた日本銀行による考査結果は衝撃的なものだった。不良債権比率が銀行本体だけで30%に達し、関連ノンバンクを含めた実質自己資本はマイナス4500億円という大幅な債務超過状態にあったのだ。
大蔵省検査と日銀考査の乖離
一方、大蔵省が前年夏に行った検査では、元利金返済に問題のある分類債権比率は11.7%、自己資本比率は8.28%と認定されており、わずか半年ほどで数字が大きく変動していた。この乖離の背景には、地価の急激な下落があった。
日本不動産研究所の調査によると、6大都市商業地の価格指数は、ピークの1990年9月と比較して、1992年3月には16.3%下落、同年9月には26.7%、1993年3月には35.0%と下落幅が拡大し続けていた。大蔵省銀行局の当時の担当者は「下落のスピードが速く、実態が追いつかなかった。評価ベースでは1割ほどしか下がっていないのに、感覚的には2割から3割下がっている。そうなると担保不動産を処分しようにも売れない」と振り返る。
銀行局長への抗議と再調査
このような状況の中、吉田社長は「このままではギブアップだ」と大蔵省銀行局にSOSを発した。銀行局は「1、2年で再建可能」と楽観視していたが、日本銀行総裁の三重野康は「預金保険を使って破綻処理すべし」と吉田に助言していた。検査結果の違いに吉田は言葉を失い、大蔵省銀行局長に対して「検査が間違っている」と抗議の電話を入れた。
これを受け、大蔵省と日銀は再調査を実施。その結果、兵庫銀行の実質的な債務超過が確認され、銀行不倒神話が崩れる端緒となった。現場と経営の認識のずれが不良債権処理を遅らせた一因であり、この経験は後の金融行政に大きな教訓を残した。



