エヌビディア救済の舞台裏、セガ800万ドル出資とジェンスン・フアンCEOが語らなかった功労者
エヌビディア救済の舞台裏、セガ出資と語られぬ功労者

2026年7月15日、東京・秋葉原のGiGO秋葉原3号館。都内の最高気温が摂氏34.3度をマークするなか、熱気に満ちたトークイベントが開催された。セガとエヌビディアの交流関係を振り返るこのイベントには、エヌビディアの創業者でCEOのジェンスン・フアン氏が来場。50人の限定抽選で開催されたにも関わらず、抽選にもれた大勢のゲームファンが「革ジャン社長」の出待ちのため同館前に駆け付けた。

これまでもフアン氏は、セガに対する過去の協力関係への「謝意」を取材やインタビュー動画で語ってきたが、今回のように元セガの入交昭一郎氏と、ゲーム開発部署・AM2研(正式名称:第2AM研究開発部)元部長の鈴木裕氏という当時の関係者を招いて行われるのは異例だ。

セガとエヌビディアを結ぶ人々

入交氏は1963年に本田技研工業(ホンダ)に入社、二輪車、自動車のエンジン開発を手掛ける。二輪車(バイク)レースの統括会社として株式会社ホンダレーシング(HRS)を設立し、初代社長に就任。その後、ホンダ副社長を経て、1994年にセガ(当時はセガ・エンタープライゼス)に副社長として入社した。入交氏のセガ入社には、ボストン コンサルティング グループ(BCG)の強い後押しがあった。当時のセガにはBCGの若手コンサルタントが2名常駐しており、発売へのカウントダウンが始まった「セガサターン」の販促計画の立案などに関与していた。

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一方の鈴木裕氏は1983年にセガに入社。85年にオートバイ・レーシングゲーム「ハングオン」を開発し、想定以上のヒットと売り上げをもたらした。その後も「アウトラン」(86年導入)「アフターバーナー」(87年導入)などのヒットゲームを数多くプロデュース。鈴木氏のゲームは「飛んで、走って、撃つ」という3原則に依ったものが多く、ゲーム筐体が可動する「体感ゲーム」シリーズと呼ばれた。さらに、3次元コンピュータ・グラフィックスを活用したレースゲーム「バーチャレーシング」(92年8月導入)と、対戦格闘ゲーム「バーチャファイター」(93年12月導入)で名声を盤石にした。

フアンCEOが語る「恩人」への謝意

今回のトークイベントは、単なるテック企業のプロモーションではなく、フアン氏は2人の「恩人」との再会を果たし、それらを熱心なゲームファンが見守る形で進行した。フアン氏は「セガがいなければ、鈴木裕さんがいなければ、そして入交さんがいなければ、今日のエヌビディアは存在していなかった。これは大げさな表現ではなく、冷酷なビジネスの現実だったのです」と述べた。

いまや時価総額で世界トップを争い、生成AI市場の覇者となったエヌビディア。だが、その足元を支える「GPU(グラフィックス・プロセッシング・ユニット)」の設計思想と経営は、90年代中盤からのセガとの協力関係がなければ潰えていただろう。現在、世界をリードするAI環境のベースは半導体であり、エヌビディアの躍進は凄まじい。しかし同社がビジネスの表舞台でブレイクスルーを果たしたのは、遡ること二十数年前、99年に販売開始されたGPU「GeForce(ジーフォース)」に由来する。それは高速かつ精細な3次元コンピュータ・グラフィックスを民主化したもので、背景にはセガの技術開発陣との濃密な研鑽と、資金提供・支援があった。

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