ノーベル化学賞の白川英樹氏死去、受賞者ら悼む声
ノーベル化学賞の白川英樹氏死去、受賞者ら悼む声

2000年のノーベル化学賞受賞者で筑波大名誉教授の白川英樹さんが亡くなった。日本のノーベル賞受賞者からは悼む声が上がっている。

受賞者らが悼む

01年に化学賞を受賞した日本学士院院長の野依良治さん(88)は「誠実を絵に描いたような人で、研究者として、教育者として誇りをもって歩まれた。非常に残念だ」と惜しんだ。白衣を着て中高生らに理科実験を教える姿が印象に残っていると言い、「好奇心を大事にして後進を育てることが本質だと思われたのだろう」と語った。

19年の化学賞を受賞した旭化成名誉フェローの吉野彰さん(78)は「白川先生の基礎研究を出発点に、私は企業でリチウムイオン電池の開発につなげた。産学連携の一つのモデルケースだった」とし、「科学の可能性を切りひらき、その面白さを次の世代へ伝え続けた」との談話を出した。

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1973年の物理学賞受賞者で茨城県科学技術振興財団理事長の江崎玲於奈さん(101)は「白川先生はユニークな存在。私とは違う分野で日本の科学技術に貢献してくれた」と振り返った。

「現代の魔術師」の足跡

プラスチックを電気を通す素材に変えた「現代の魔術師」白川英樹さんは、ノーベル賞のイメージも大きく変えた。白川さんより前に、日本でノーベル賞を受賞したのは物理学賞の湯川秀樹さんら8人だけだった。2000年の白川さん以降は、受賞が毎年のように続き、ノーベル賞はぐっと身近なものになった。数だけではない。湯川さんや化学賞を初めて受賞した福井謙一さんは威厳があって近寄りがたい雰囲気があった。白川さんは柔和で親しみやすい人柄で慕われた。

秘めた一面を感じたのは、ストックホルムでの授賞式直後に行われた江崎玲於奈さんとの対談だった。「科学者として最高の栄誉。気配はうすうす感じていた」と漏らした一言に科学者としての強い自負を感じた。

海外に比べ、受賞前の国内の評価は決して高いものではなかった。受賞後、日本化学会が急きょ特別賞を贈ろうとしたが、断った。反骨心とともに「賞は若い人にあげてほしい」との教育者の思いがあった。

教育への情熱

偶然から本質をつかみ取る力に優れていた。ある時、一緒に研究していた留学生が触媒の量を誤って1000倍投入。それまで作れなかったフィルム状の「ポリアセチレン」ができた。その可能性を見逃さず、電気を通すプラスチックの発見につなげた。

筑波大を定年退職後、サボテンを育ててのんびり暮らす予定は激変した。科学技術政策のかじ取りを担うようになったが、何よりも情熱を注いだのは、子どもたちに科学の魅力を伝えることだった。科学ジャーナリスト塾に参加して伝え方を学ぶ徹底ぶりだった。今年8月にも、長野県軽井沢町で恒例の実験教室に参加したばかりだった。

講演では「僕は秀才ではない。幼稚園から大学まで成績が一番になったことはない。そういう人間でもみんなに認められる仕事はできる」と励ました。

読売新聞主催の「ノーベル賞受賞者を囲むフォーラム」でも飾らない人柄は人気だった。09年夏には、女子高校生に「初恋はいつ頃?」と質問され、「研究者だって恋をする。しょっちゅう恋していたからどれが初恋か覚えていない」と答えて会場を笑いで包んだ。

趣味の園芸のように、子どもたちに好奇心の芽を育て続けた生涯だった。

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