1948年(昭和23年)秋、平凡社と東京印書館の創設者である下中彌三郎が、兵庫県明石市の森澤信夫の自宅を突然訪ねた。下中は「明石には『亀の水』という有名な水があると聞いた。その水で淹れた茶を喫したい」と言い、森澤が汲んできた水で茶を味わった後、本題を切り出した。「出版界の趨勢は横組みがますます多くなる。だからもっと能率的に横組みのできる機械を考えなければだめだ」.
下中彌三郎の来訪とMC型写植機
森澤は「実は縦組み、横組みが自由にできる新型写植機の試作機がすでに完成しているのですが、発表をためらっておりました」と答えた。下中は「なんと。その機械を必要としている需要者がいるのに、なぜ発表しないのか。それは技術者の怠慢ではないのか」と叱咤した。森澤は設計図を見せて詳しく説明し、下中は「一日も早い実用機の完成を待っている」と激励した。
下中はこの頃、横組みの『児童百科事典』を企画しており、石井茂吉が開発中の細明朝体と、森澤の新しい機械を結びつけていたとされる。東京印書館の和田栄吉は後年、下中の訪問が森澤に与えた感激の大きさを記している。
石井茂吉の来阪と対立
下中の要請を受け、森澤は茂吉に大阪への来訪を促す手紙を送り続けた。茂吉がようやく訪れたのは1949年(昭和24年)春だった。森澤はMC型機を見せて「A型をやめてこれを出すようにしては」と提案したが、茂吉は押し黙った。実は茂吉は、森澤が新型機の開発を秘密裏に進め、特許まで出願していたことに不快感を抱いていた。1947年5月17日に出願され、1949年6月16日に取得された特許(特公昭24-177)は、森澤単独の名義だった。
茂吉は「機械のよしあしは、使ってみなければわからない」と言い残して東京に戻った。森澤にはその態度が理解できなかった。
文字盤の配列を巡る意見の相違
この来阪の際、ふたりは文字盤の配列についても話し合った。1946年に当用漢字表が公布され、1948年には教育漢字が定められたことを受け、森澤は使用頻度を重視して文字数を絞るべきだと主張した。新聞の漢字使用頻度調査では2,000字で99%以上が組めるという結果があった。一方、茂吉は印刷には約5,000字が必要だと主張し、意見は対立した。
結局、ふたりはそれぞれの配列で文字盤をつくることになった。森澤のMC型機では文字盤を35枚から28枚に減らし、頻度に応じた配置を採用。茂吉は1級から4級までの32枚、総字数8,609字の新配列を考案した。



