徳川家康の正室・築山殿は、嫉妬深く、武田と内通した「毒婦」として語られてきた。しかし、江戸文化風俗研究家の小林明氏は「その悪女像は、妻と嫡男を死に追いやった“神君家康”を正当化するために作られたものだった可能性がある」と指摘する。
築山殿とは何者か
築山殿(関口義広の女)は、徳川家康の最初の正室である。生まれは天文8~11年(1539~1542年)と推定されるだけで、はっきりとはわからない。没年は『徳川幕府家譜』に「天正七年八月廿九日(1579年)」とあり、数え年41~44歳で死去したとされる。
家康との間に1男1女をもうけた。息子が松平信康、娘が亀姫だ。信康は家康の正統な後継者であり、亀姫は家康の家臣・奥平家に嫁いだ。
五徳の訴状と信康事件
嫡男の信康をめぐって問題が起きた。信康は家康と同盟関係にあった織田信長の娘・五徳(徳姫とも)を妻に迎えていたが、2人は不仲で、かつ姑の築山殿と五徳の関係も良くなかった。五徳が男児を授からなかったため、築山殿が他の女性を側室に迎えようとしたのが原因だったという。
五徳は実家の父・信長に、信康と築山殿の悪行を告げる手紙を書いた。俗に『十二ヶ条の訴状』と呼ばれる弾劾状である。訴状の原本は現存していないが、後年成立した徳川の創業史『改正三河後風土記』(天保8年/1837年編纂)によると、以下のような内容が書かれていた。
- 「私(五徳)が男子を産まないことに腹を立て、甲斐武田氏の旧臣の娘を信康の側室にしようとしている」
- 「築山殿は甲斐の医師・減敬と密会し、信康と共に織田・徳川を裏切り、武田氏に味方すると誓っている」
- 「武田は織田・徳川を滅ぼした後、信康を新たな領主とし、築山殿は武田の家臣の妻になろうとしている」
一通の手紙が2人の命を奪った
武田の名将・信玄はすでにこの世になかったが、その息子・勝頼は織田・徳川連合の前に立ちふさがる強大な敵だった。そうした状況下で、徳川の正室と嫡男が武田と内通しているなど、あってはならないことだった。
この他にも「信康が鷹狩りの最中に罪もない僧侶を殺害した」「私の侍女を目の前で刺殺した」など、サイコパスともいえる暴君ぶりが糾弾されている。
訴状に目を通した信長は、家康に信康と築山殿の殺害を命じた。これによって天正7年(1579年)8月29日に築山殿が、9月15日に信康が自害させられた。
通説と大河ドラマの描き方
以上が築山殿と信康に関する通説で、NHK大河ドラマなどはこの逸話をベースに、築山殿を「毒婦」として描くことが多かった。例えば昭和58年(1983年)、滝田栄主演の大河ドラマ『徳川家康』では、信長に従属する家康に不満を募らせ、夫婦仲が冷え切ったあげく、武田と密約を結ぶ築山殿が描かれた。
また、築山殿が「甲斐の医師・減敬と密会していた」と前述したが、これを男女関係すなわち不倫と断じている史料も一部にある。ただし『十二ヶ条の訴状』は原本が残っていないため、内容を鵜のみにはできない。
それでも築山殿が生来、激情型の女性だったという説は根強く、江戸中期の元文5年(1740年)に成立した家康の業績をまとめた『武徳編年集成』には、「その心、偏僻邪佞にして嫉妬の害はなはだし」とある。偏僻は心が偏っていること、邪佞は邪心の持ち主で、おまけに嫉妬深いという意味である。



