大河「豊臣兄弟!」本能寺の変黒幕説を検証:信澄は無実だった可能性
大河「豊臣兄弟!」本能寺の変黒幕説を検証

大河ドラマが描く信澄の役割と史実の乖離

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、織田信長(小栗旬)の甥である織田信澄(緒形敦)が、舅の明智光秀(要潤)に謀反をけしかけ、本能寺の変を引き起こした黒幕として描かれている。しかし、歴史研究者の濱田浩一郎氏は、実際の信澄が光秀と共謀したとする確固たる証拠はなく、無実であった可能性が高いと指摘する。本稿では、信澄の生涯を振り返りながら、その根拠を詳しく検討する。

信澄の出自と幼少期:父信勝の謀反と信長の温情

信澄の父は、織田信長の実弟である織田信勝(信行)である。信勝は信長に対抗心を燃やし、度々敵対したが、母・土田御前の取りなしで許されていた。しかし、永禄元年(1558年)、再び謀反を企てた信勝は、柴田勝家の密告により露見。信長は病と称して清須城に信勝を呼び寄せ、河尻秀隆らに命じて殺害させた(『信長公記』)。

幼少の信澄は父の罪に連座せず、信長は彼と対面し、柴田勝家に養育を命じた(『寛政重修諸家譜』)。戦国時代にあって、謀反人の子を生かすのは異例の温情であり、信長が信澄を将来有望な人材と見ていた可能性を示す。

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信長の信澄への厚遇:城と信任

信澄は成長後、信長から厚い信任を受けた。天正年間には、信長の嫡男・織田信忠の配下として、奈良や京都周辺で活動。特に、信長が名香「蘭奢待」を求めて奈良を訪れた際には、信澄が同行している。また、安土城に近い城(おそらく安土城下の屋敷)を与えられ、信長の側近として重用された。これらの事実は、信澄が信長に疑念を抱かれるどころか、重要な役割を任されていたことを示す。

本能寺の変における信澄の立場

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が勃発。光秀軍が本能寺を襲撃し、信長は自害した。信澄は当時、大坂方面にいたとされるが、変後すぐに信長の三男・織田信孝に疑われ、殺害された。首は堺の町にさらされたという。

濱田氏は、信澄が光秀と共謀したとする史料は乏しいと指摘。むしろ、信澄は信長の厚遇に報いる立場にあり、光秀の謀反に加担する動機は薄い。信澄の妻が光秀の娘であることから、姻戚関係が疑いを招いた可能性が高い。また、変の直後に信澄が自ら光秀に加勢した形跡もなく、無実のまま処断されたと濱田氏は結論づける。

信澄無実説を支える根拠

第一に、信長の信澄への一貫した厚遇。第二に、信澄が変の際に積極的な行動を取った証拠がない。第三に、信澄殺害の命令を下した信孝自身が、後に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)との対立で非業の死を遂げており、その判断が政治的なものであった可能性。濱田氏は、信澄の無実を裏付ける史料として、『信長公記』など同時代の記録に信澄の関与を示す記述がないことを挙げる。

ドラマの脚色と歴史解釈

大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、ドラマの展開上、信澄を黒幕として描くことで物語に緊張感を与えている。しかし、歴史研究者の見解は異なる。濱田氏は「信澄が光秀と共謀したとするのは、後世の創作や憶測に過ぎない。史実を重視すれば、信澄は無実の犠牲者だった可能性が極めて高い」と述べている。

本能寺の変の黒幕を巡る議論は、明智光秀単独説、朝廷黒幕説、羽柴秀吉関与説など様々あるが、信澄が主導したとする説は史料的な裏付けが弱い。今後の研究の進展が待たれる。

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