「かわいいね」「ビジュ最高!」——日常的に使われるこれらの言葉は、本当に相手に喜ばれているのだろうか。容姿への言及が繊細なテーマとなる中、推し活(アイドルや声優などへの応援活動)の場面でも、ルッキズム(外見主義)との関連性が問われている。
推し活とルッキズムの狭間
「私は推しの容姿が好きだけど、これってルッキズムになるのだろうか」。そんな疑問を持つファンは少なくない。本記事の筆者は、中学生の頃から推し活に没頭し、大人になった今も映画館に半年で100回近く通う生粋のオタクだ。その経験から、推し活とルッキズムについて考察する。
まず、容姿が好きで推すこと自体は決して悪いことではない。アイドルや声優など、さまざまな界隈で推しに人生を潤されてきた筆者は、容姿や雰囲気がきっかけでファンになることも多かったと語る。現在は二次元と特定の声優を推しているという。
「ダブルスタンダード」批判の裏側
しかし、ルッキズム問題について発信する筆者に対し、「推しが美男子なのはダブルスタンダードだ」という批判が過去に何度か寄せられた。筆者はこれに対し、「もし推しが一般的な『美しいお顔』でなかったら矛盾しないのか? それもまた立派なルッキズムだ」と反論する。
人間には「好み」や「理想」といった感性が自然と存在する。個人の主観に基づく「かっこいい」「かわいい」という感情は尊いものだ。批判した人と筆者は、単に「美」の定義が異なっていたに過ぎない。
「正解の押し付け」が生まれる瞬間
問題は、その「好み」や「理想」を他人に強要したり、唯一の「正解」としてしまうことにある。自分の推しのビジュだけが正解であり、「かっこいい」「かわいい」の代名詞だと決めつけることは、「美とはこうあるべき」という価値観に加担することになる。
ルッキズムが問題視される現代、褒め言葉であっても容姿に言及すること自体がタブー視される風潮がある。しかし、筆者は「自分の好き」と「相手の好き」の両方を大切にすることで、ルッキズムに陥らずに推し活を楽しめるのではないかと提案する。
「自分の好き」も「相手の好き」も大切に
推しの容姿を楽しむことと、それを唯一の価値基準とすることは別だ。ファン同士で異なる「好き」を認め合い、押し付け合わないことが重要である。ルッキズムの問題は、個人の感性を否定することではなく、他者への強要や差別にある。
「かわいいね」という一言が、相手にとってはプレッシャーや「正解の押し付け」になる可能性もある。推し活に限らず、日常のコミュニケーションにおいても、自分の言葉が相手にどう受け取られるかを意識することが求められる。



