上杉謙信「義の武将」と武田勝頼「愚将」は後付けのイメージ?東大教授が解説
上杉謙信「義の武将」と武田勝頼「愚将」は後付けのイメージ

戦国武将の人物像は、後世に作られたイメージに過ぎない可能性がある。元・東京大学史料編纂所教授の本郷和人氏は、著書『東大教授、日本史の謎を語り尽くす』の中で、上杉謙信と武田勝頼の評価が「後付け」であると指摘する。

「軍神」と「禁欲」の英雄像

上杉謙信は「義の武将」として知られる。毘沙門天を深く信仰し、自らをその化身と位置づけた軍神。川中島で武田信玄と戦った宿命の好敵手であり、「敵に塩を送る」逸話は公正さの象徴として広く知られている。

さらに、生涯独身を貫いたことから禁欲的な人格が強調され、超然とした存在として語られてきた。体格が小柄だったという伝承から、女性説まで存在する。

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本郷氏は「義、軍神、禁欲、宿命の対決。こうした要素が重ねられ、謙信は戦国の現実を超えた英雄像として整理されてきた」と述べる。「義」という言葉も、私欲を離れて公の筋を通す人物という理想的な響きを持ち、のちの武士道とも重なりやすい。

米沢藩と「義」の継承

謙信の「義」のイメージは、米沢藩の歴史と深く関わっている。上杉家は関ヶ原の戦いで西軍につき、会津120万石から米沢30万石に減封された。藩主・上杉鷹山は藩政改革に尽力し、倹約と仁政を推進。この中で、謙信の「義」の精神が理想化され、藩のアイデンティティとして継承された。

本郷氏は「米沢藩の窮状を救うために、謙信像が利用された可能性がある」と指摘。謙信の「義」は、藩士の結束を高めるための装置として機能したという。

長篠の戦いで固まった「愚将」のイメージ

一方、武田勝頼は「無謀な愚将」として語られることが多い。特に長篠の戦い(1575年)で織田・徳川連合軍に大敗し、武田家滅亡のきっかけを作ったとされる。この戦いで勝頼は鉄砲隊を前に騎馬隊を突撃させ、壊滅的な打撃を受けたというイメージが定着している。

しかし本郷氏は「長篠の戦いの実像は異なる」と指摘。実際には勝頼は撤退を試みたが、味方の部隊が勝手に突撃した可能性が高いという。また、武田家の滅亡は勝頼の無能さではなく、信玄の急死や周辺勢力の変化など複合的要因によるものだ。

愚将ではなく「滅びた家」の当主

勝頼の評価が低い理由として、本郷氏は「敗者が歴史に書き残されることは少ない」と説明する。武田家は滅亡し、勝頼を称賛する史料はほとんど残らなかった。一方、徳川家康は長篠の戦いを自らの功績として強調し、勝頼を愚将と描くことで自らの勝利を際立たせた。

「勝頼は決して無能ではなかった。信玄の遺産を受け継ぎ、領国経営にも手腕を発揮した。しかし、時代の流れに抗えなかっただけだ」と本郷氏は語る。

理想的な名将・信玄と「対になる存在」

謙信と勝頼のイメージは、武田信玄という存在によっても影響を受けている。信玄は「戦国最強の武将」として理想化され、その対極として謙信は「義の人」、勝頼は「愚将」という役割を与えられた。

本郷氏は「信玄という絶対的な存在がいるからこそ、謙信と勝頼のイメージが固定化された」と分析。信玄と謙信の川中島の戦いは「宿命の対決」として美化され、勝頼は信玄の後継者として「期待に応えられなかった者」と評価された。

歴史的人物の評価は、後世の政治的・文化的な要因によって大きく歪められる。謙信と勝頼のケースは、その典型例と言えるだろう。

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