「百万本のバラ」で知られる歌手の加藤登紀子さん(82)は、終戦翌年の1946年秋、母ときょうだいの計4人で満州(現中国東北部)から引き揚げた。終戦記念日を前に、兄の幹雄さん(88)とともに取材に応じた加藤さんは、ハルビンで生まれたことや引き揚げ体験が愛や平和を歌う活動につながっていると語った。
ハルビンでの生い立ちと引き揚げの過酷な旅
父の幸四郎さんは南満州鉄道(満鉄)に勤めており、加藤さんは1943年にハルビンで生まれた。幸四郎さんは現地で召集され、安否は1945年8月15日の終戦後もわからなかった。
1946年9月6日、加藤さんは当時2歳8か月で、母の淑子さんに連れられ、幹雄さん、姉の幸子さん(86)とともに列車でハルビンを出発した。当時8歳だった幹雄さんによると、家族は屋根のない無蓋貨車に乗って移動。雨が降ると車内に水がたまり、体も荷物もびしょびしょになった。道中で、加藤さんは「おうちへ帰ろう」と母に何度も話しかけていたという。
鉄橋が壊れて線路が寸断され、10キロ・メートルほど歩いたこともあった。加藤さんは、母から「歩かないと死ぬことになるよ」と言われて懸命に足を運んだ。葫蘆(ころ)島の港から、貨物船「遠州丸」で日本へ向かった。船内では、毎日のように亡くなった人の水葬が行われていた。船内での食事はあわのおかゆだった。10月半ば、長崎・佐世保の港で下船。そこから鉄道で実家のある京都へ向かった。
父の帰還とロシア料理店「スンガリー」
父はソ連軍の捕虜となり、1947年に京都に帰ってきた。1957年、東京にロシア料理店「スンガリー」、1972年、京都に「キエフ」を開いた。加藤さんは「スンガリー」で、ロシア人の従業員にかわいがってもらった。「満州時代にロシア人と一緒に暮らしていた空気感がそのままあった」。母から聞いた話やスンガリーでの交流から、生まれた土地を思い描いた。
東京大在学中の1965年に歌手デビュー。学生運動に参加したが、「対立によって道を開く世界」に限界を感じた。加藤さんは「人間は残念ながら分断し、国境も言語の隔たりもあるけれど、そこから流れていく歌は自由。あらゆる壁を越えていく力があるはず」と語る。
「百万本のバラ」と歌の力への信念
ハルビンには当時、日本人に加え、政治の混乱や迫害から逃れてきたウクライナ出身者やユダヤ人ら多様な人たちが住んでいた。自分のルーツをどう紡いでいくか考えた時、「戦争や侵略ではない方法で世界の文化と触れ合い、人々と深くつながる。そうした願いは、私が生まれた時からのテーマだと思っているのね」と話す。
代表曲「百万本のバラ」は加藤さんが日本語の訳詞をつけて歌い、1987年に発売され、ヒットした。もともとは、ラトビアの作曲家が作曲し、ロシアの詩人が歌詞をつけた歌謡曲だ。ロシアのウクライナ侵略後に訪れた旧ソビエト連邦の構成国だったジョージアでは、ロシア語で歌われるこの曲を敬遠している人もいた。「戦争というのは、憎しみを生み出すように人の心を変えてしまう」と加藤さんは話す。
それでも、加藤さんは歌の力を信じている。「音楽にはそうした恐ろしさを超え、踏みとどまる力がある。戦争という方法では何も解決できない。歌の持つ力を信じ、ステージに立ち続けたい」と語った。



