にかほ市で実写映画「ルックバック」の撮影が行われていた時期、市民の間で「アレ」という言葉が頻繁に使われていた。同市をメインロケ地として1年以上にわたって撮影が行われたこの映画を指す言葉だ。
「アレ」と呼ばれた映画の存在
2025年2月から撮影が始まったが、同年12月に情報解禁されるまで、映画の存在そのものが秘密だった。撮影協力者にはかん口令がしかれ、偶然撮影のことを知った市民も口外するのを遠慮する雰囲気だった。そんな中、映画のことを「アレ」と呼ぶ習慣が自然発生的に生まれた。
小学校の先生役で出演した俳優の宮藤官九郎さんは、週刊誌のコラムで、その習慣に出くわした時のことをユーモアたっぷりにつづった。撮影で同市に滞在中、居酒屋に入ったところ、「宮藤さんもアレ出てるんだね」「アレの撮影はいつまで?」「先週、アレに出てる女優さんが来たよ」と、「アレ」づくしの会話に遭遇した。「なんと律義で口の堅い人たちなんだ」と感心したという。
子どもたちも口が堅かった
大人だけではない。撮影セットの見学に招待された子どもたちも口が堅かった。中学生の長男が見学に行ったと聞いた鳥海山・飛島ジオパーク推進協議会事務局長の山本正樹さん(52)は夕食の際、「何を見てきたの」とカマをかけてみた。いつもはおしゃべりな長男は、「別に~」と言葉少なに目線をそらした。その後、市内で目撃された俳優のうわさ話を妻としていると、「そういうこと話しちゃダメなんだよ」と逆に注意された。
同市の市川雄次市長は、「市民も日常の中の非日常として撮影を楽しんでいた」と振り返る。「アレ」という言い方には、撮影隊を受け入れ、それに伴う制約さえも楽しい出来事として前向きに受け止めた市民の温かさが表れている。
撮影隊と市民の交流
映画スタッフも、市民の温かさに触れた。JR仁賀保駅近くで居酒屋「酒房やまぶき」を経営する鳴海節子さん(80)は、持ち前のサービス精神と温かい人柄、料理の腕前で、スタッフや出演陣に「せっちゃん」の愛称で親しまれた。地元の常連客には母親のように慕われ、初めての旅行者には「これ食べな」と気さくに話しかける。撮影隊の行きつけの店になるのに時間はかからなかった。
孫と同世代という主演の出口夏希さん(24)と蒔田彩珠さん(24)とは、撮影が終わる深夜まで店を開けて待っていたり、宿泊するホテルまで車で送り迎えしたりするうちに年の差を超えて友情を結んだ。「夏希はテレビに出ているイメージ通りの元気者で、LINEでメッセージを送ってもすぐ返事が来る。彩珠はのんびりしたところがあって、返事が2、3日遅れたりするけど、そこが良いところ。2人とも本物の孫よりかわいい」と笑顔で語る。
撮影で疲れ切ってホテルに帰ったはずの是枝裕和監督が、鳴海さん特製の鯨汁の評判を聞き、ひょっこりと店に現れたり、市内の遠く離れた場所に宿泊するスタッフが、「現場でうわさを聞いてずっと来たかったんです」とうれしそうに来店したりした。
「冥土の土産に」とJR秋田駅でのロケにエキストラで参加した鳴海さん。「撮影隊が撤収した後も、鳥海山に登るためににかほ市を訪れたスタッフが店に寄ってくれたり、東京での夏希の握手会に私が参加したりした。映画を通じて色々な縁が生まれたことに感謝している」と話した。



