入浴のとき、美貴子は浴室にその額を置いた。養育係として父が日本から呼び寄せた田所さんは、バスタブの中の美貴子に「悲しいことは、少しずつ悲しくなくなりますよ」と声をかけ、タオルで背中を擦った。
「お母様はそんなふうに言わなかった」と美貴子が言うと、田所さんの眉毛が困ったように八の字に下がった。
夜泣きと父の姿
母が亡くなってから、美貴子の夜泣きが止まらなくなることもあった。大抵は田所さんがやってきて、美貴子が眠るまで背中をトントンと叩いてくれたが、それでも泣き声が止まらないときには、別室で寝ている父が田所さんに「僕がみますよ」と告げて、美貴子の部屋に顔を出すこともあった。明け方に近い真夜中、父はベッドに腰をかけて、美貴子がどうにか眠りの世界に行くまで、背中をやさしく撫で続けてくれた。
最愛の妻と子どもたちを同時に亡くした悲しみは、美貴子の父である正成も、美貴子と同じように心のなかで抱え続けていたが、明治生まれの彼が、葬儀や、誰かの前で声を上げて泣くことはできなかった。それでも、父は美貴子を寝かしつけたベッドに座り、顔を手で覆って、声を殺して涙を流すこともあった。
正成の故郷と海関での立場
海を渡り、この大陸に来て、妻と出会い、子どもたちが生まれた。それが今はまるで夢のように思える。
正成の故郷は鹿児島で、父は薩摩藩士だった。父と兄は、正成が赤んぼうのときに、西南戦争で西郷隆盛と共に自刃して亡くなった。日本の大きな変わり目、近代化とともに、正成は成長した。上京後、伊藤博文の書生になり、英語を自らの力でマスターしたあとに、中国大陸に渡った。ここに至るまでの旅路を思い返すと、肺の奥深くからため息がひとつ漏れる。
正成の日々は中国の海港における貿易管理と関税の徴収機関である海関の仕事で忙殺されていた。この海関は日露戦争以後に置かれた機関なので、原則的に職員は日本人とされていたが、実際は上級職員の多くが、イギリス人や中国人、その他多くの外国人によって占められていた。そのなかでも正成は海関副監察長という高い地位におり、当時の日本の大臣以上の給与を手にしていた。



