大津市歴史博物館で開催中の第100回企画展「豊臣秀吉と大津」が、秀吉にとって坂本城が織田家を超越し、天下人へと向かう舞台だったことを、豊富な資料で明らかにしている。企画展は30日まで。
坂本城の歴史と秀吉の軍事拠点
坂本城は、織田信長による比叡山焼き討ち直後の元亀2(1571)年、明智光秀が比叡山麓の琵琶湖岸に築いた。イエズス会宣教師ルイス・フロイスが「豪壮華麗で安土城に次いで有名な城」と称えたことで知られる。
光秀は本能寺の変で信長と長男・信忠を殺害し、秀吉に討たれた。坂本城は天守が焼け落ちたとされるが、城としての機能は存続。本能寺の変後の領地配分で、坂本城のある志賀郡と高島郡は丹羽長秀に与えられた。
展示資料のうち、秀吉が信長の三男・信孝に宛てた書状の写しには、「坂本を持ったならば天下(京都)を包むことになり、秀吉は天下を支配したいと思われるのは迷惑であるので、長秀に渡した」とあり、天下人にとって要の城だったことが分かる。
筆頭家老の起用と織田家超越の意思
賤ケ岳の戦い後、大坂城を本拠とする秀吉は坂本城主に杉原家次を据えた。展示担当の五十嵐正也学芸員は「家次は浅野長吉(のちの長政)と並ぶ筆頭家老とみなされていた」と話す。家次は秀吉の妻・寧々の母の兄で、本能寺の変後は京都奉行を務めていた。
家次はまもなく福知山城に移され、代わって長吉が坂本城主に。長吉は後に豊臣政権の五奉行として活躍する。長吉はそれまで瀬田城主を務めており、秀吉の「大津」重視がうかがえるという。
天正12年3月、信長の次男・信雄が家康と組んで秀吉に反旗を翻し、小牧・長久手の戦いが勃発。同年4月の書状には、尾張在陣中の秀吉に坂本から鍬200挺が届くことが記され、坂本が物資輸送拠点として機能していたことが分かる。同年5月の書状で秀吉は信長が焼き討ちした延暦寺の再興を認めており、五十嵐学芸員は「秀吉が主家である織田家を超越する意思を表明したといえる」と意義づける。
大津城への移行と展示の見どころ
秀吉は小牧・長久手の戦いで政治的勝利を挙げた後、天正13年11月の天正大地震で坂本城から大坂城へ避難。翌年正月、坂本城を廃して大津城の築城に着手した。「秀吉の坂本城」は2年半で幕を閉じた。
坂本城跡では令和6年、長さ30メートルに及ぶ石垣の出土が発表され、城郭西辺の三ノ丸の堀と推定された。展示会場には、付近で出土した漆器椀や下駄などの木製品が初公開されている。また、長吉が城主を務めた大津城に関する資料も展示され、「大津町」の発展の基礎が秀吉によって築かれたことが理解できる。
観覧料は一般800円など。問い合わせは同館(077・521・2100)。



