「紺碧のアビタシオン」第29回 美貴子、大連への別れを告げる
「紺碧のアビタシオン」第29回 美貴子、大連への別れ

「美貴子さん、早く自分の荷物をまとめなさい!」

そう言う母の声に聞こえないふりをして、美貴子は大連の町を一人歩きまわっていた。

忘れがたい思い出の地を巡る

ガス灯が美しい大広場、亡くなった母と父とアイスクリームを食べたヤマトホテル、たくさんの友だちがいる女学校、父と二人通った教会、メリーゴーランドに乗った電気遊園、そして、夏の日を過ごした海……。そのすべての場所に美貴子は足を向けた。大連の町の至るところに、忘れがたい思い出があった。

友人たちのなかで東京の女高師に行くのは美貴子だけだった。

「でも、東京に行ったって、いつだって大連には帰れるのでしょう? 私たち」

夕食の席で、父に聞いても母に聞いても、なぜだか、かすかに頷くだけではっきりした答えはなかった。

母の絵を連れて

美貴子たち家族が東京に向かい、春が来れば、また、大連の町はアカシアの香りで満たされる。ほんの少し悲しい気持ちになるのは、なぜだか亡き母をこの町に置いていくような気持ちになるからだった。美貴子は自分の部屋で母の絵を見た。母はこの絵のままで年齢を重ねない。女高師の試験に受かったことを亡くなった母に聞かせたらどんな顔をするだろう。きっと喜んでくれるに違いない。

美貴子は母の絵が入った額を手に取りつぶやいた。

「お母様も行くのよ。東京に行くのよ。大連に置いていかない。いつまでも私のそばにいてね」

そうしてその絵を自分が持っている上等な絹のスカーフに包み、革のトランクのいちばん上に置いた。

港での別れ

大連を旅立つ日、父の仕事仲間や、女学校の友人たちが、美貴子たち家族を港で見送っていた。

「私たち、また、会いましょうねえ!」

美貴子は声を張り上げた。聞こえたかどうかもわからないが、美貴子も友人たちも大きく手を振った。船が港を離れる。埠頭に立つ友人たちがどんどん小さくなっていく。

明るい未来が私にはあるのだ。明るい未来が私たちを待っているのだ。大連の町で過ごしたように、東京に行ったって楽しい時間が続くはずだ。自分の人生はずっと快晴で、雨が降る暇だってないはず。美貴子はそう信じて疑っていなかった。

大連の町は小さくなって、やがて美貴子の視界から消えていった。