「東京にはすでにすき間がない。インターネットにも同じことが言えて、『まだ誰も考えていないこと』などもうこの世のどこにも残されていないような気がする、そういう日がある」
芥川賞受賞が決まった小砂川チトさんが、寄稿でこうした実感を率直につづった。新たな考えが自分のなかに兆しても、ひとたび検索してしまえば似たような考えの人が大勢あらわれる。自分が思うようなことは誰かがすでに考え終わり、言葉にもしている。何かをあたらしく建てるための土地はどこにもない――。
「インプレゾンビ」の時代
近年、「インプレゾンビ」というふしぎな言葉が生まれた。SNS上において「見かけのうえではひとりの人間としての挙動を見せているが、そのじつ意識や意思がなく、中身が不在」であるということがらを、ゾンビというイメージが修飾するらしい。
人も建物もどこもぎゅうぎゅうに密集しているいっぽうで、その実在が疑わしいような得体の知れないものもするりと紛れ込み、いっしょにこの社会を歩いている。隣を歩くその人物は、その会社は、はたしてほんとうにここに実在するのか?
海外では歩きスマホのことを「Smartphone Zombie」と呼ぶそうだし、疲れ果てた労働者はそのまま「Zombie Worker」だそうである。ことほどさように現代にはゾンビが急増中であり、そうしてわたしたち自身もまた日常的に、カジュアルにゾンビ化していることが分ってくる。
商業作家としての固有性
このたび強運が味方して芥川賞を賜ることになった。しかし、まだ自分のことを「プロだ」というふうに思えたことはない。インターネット上で文章を書くひとも増え、プロとアマチュアの差というのもきっとどんどんあいまいになっているだろう。
突き詰めてゆけば、簡単に取り下げることができない、というこの一点においてのみ、商業作家として文章を読んでもらうということの固有性があるんではないかと、現時点では思っている。
実在し続けることの困難
物語を閉じるというのは、今現在の自分をそこに綴じ込む、閉じ込めるという、一種屈辱的な行為だと思うことがある。自分の無知、つたなさ、浅はかさ、そういうものを綴じて残すというこの動作。
ひとたび発表してしまえば、ツイートやブログ記事のように気軽に取り下げたり書き換えてしまうことはできない。つまりその場から不在になったり、居留守を使うことができない。強い恥の感情を覚えながらも、しかしここに実在し続けていなければならない。経歴から顔から何から、この実在をごまかしようがないのだ。
思うに誰にとっても、この世に実在し続けることは、ひじょうに骨の折れることである。わたしたちは自分をいったん不在にするために、物語という虚構を頼るのではないか。
ゾンビと人間とを行き来して
わたしたちはスマートフォンや本を片手に、ときおりゾンビになる。そうやってさまよう時間が人生にはきっと必要なのだ。疲れれば上手にゾンビ化し、飽きたら気まぐれに人間に戻ることにして、ゾンビと人間とを行き来しながら、わたしも歩こう。
小砂川チトさん
小砂川チトさんは1990年、盛岡市生まれ。慶応大院修了。2022年にデビュー作「家庭用安心坑夫」で初めて芥川賞候補になる。2作目の「猿の戴冠式」でも候補に。今回、3度目の候補となった「ゾンビ回収婦」で受賞した。



