電車での「スキマ時間」の主役は、本からスマートフォンに移ってしまったように見えます。作家、劇作家の戌井昭人さん(54)は、それだけでは寂しいのではないかと感じているようです。理由は、若いころのある甘酸っぱい思い出にありました。
スマホ全盛の今、紙の本への郷愁
電車に乗るとほぼ全員がスマートフォンを覗き込んでいる。この光景を前にすると「なんだかなぁ」と思えてくるが、結局、自分もスマートフォンを眺めている。一方、電車の中で文庫本を読んでいる人を見かけると、勝手に好感を持ってしまう。
最近はスマホで小説や漫画を読んでいる人もいるが、古臭いおっさんのような事を言わせてもらえば、やはり紙の本が良い。それで、移動時間をスキマととらえるなら、昔は移動のスキマに本を読んでいる人がたくさんいた。
電車で出会った『ドリアン・グレイの肖像』の彼女
学生のころ、通学で乗る電車の同じ車両に、いつもカバーの取れた文庫本を読んでいる女の子が乗ってくるようになった。背が高く、長い髪は無頓着にボサボサで、よれた半袖シャツに黒い長めのスカート、足元はコンバースの踵を踏み潰して履いていて、黒目がちの目でいつも本に没頭していた。日本人離れした雰囲気があり、意図しているのかしていないのかわからない独特さも相まって、あっさり好きになってしまった。
一緒の駅で降りるので、学部は違うが同じ学校に通っているのはわかった。とにかく気になって、ある日、勇気をふりしぼって話しかけてみた。そのとき彼女が読んでいたのは『ドリアン・グレイの肖像』だった。いろいろ訊けば、一歳年上で、休学してボストンに留学していたが、最近日本に戻ってきたとのことだった。それ以降は仲良くなって、喫茶店に行ったり、映画に行ったり、本の話もたくさんした。
片思いの記憶と「スキマ読書」の原点
こちらは完全に恋をしていたが、向こうからすると恋の対象ではなく、何度告白しても、あしらわれ、結局、片思いで終わった。彼女は、オスカー・ワイルドが好きで、とくに好きなのは『幸福な王子』だった。電車の中、低い声で情感たっぷりに『幸福な王子』の素晴らしさを話してくれたのはいまでも覚えている。いつもカバーのない文庫本を上着のポケットやリュックに突っ込んでいて、カバーは邪魔だからと、本を買ったらすぐ駅のゴミ箱に捨てていた。
さらに、その日、持っている本を読みつくすと、古本屋の百円棚から適当に選んで、禁煙を勧める本やポーカーの必勝本などを買い、なんでも読んでいた。そのこだわりのなさが素敵だった。スキマ読書と聞いたとき、空いた時間があれば常に本を読んでいた彼女のことを思い出した。
これからの電車に文庫本を
人類は、いい加減スマートフォンに囚われすぎだと皆が感じている。「またスマホ見ちゃった」と己に呆れている人も多いはずだ。私もそのひとりで、とにかくスキマがあればスマホだ。そんなこんなで、この先、電車に乗るときは、昔みたいに文庫本を携えてみたいと思う。
紙のニオイ、ページをめくるあの感じ、自分が読書に集中していると気分がいいし、本を読んでいる人を見るのも気持ちが豊かになる。
電車で読書する女の子を好きになり、もう三〇年以上経ってしまった。当時は、こんな時代になるとは想像もしていなかったが、彼女は、いまもスキマに読書をしているだろうか?=寄稿=