武蔵野探勝会は、府中の欅並木から始まりました。府中は、天皇を中心とする中央集権国家を支える一地方につくられた武蔵国の国府のあったところです。記念すべき1回目は、飛鳥~奈良時代における片田舎だった「武蔵野」に由来する場所が選ばれたのでした。
欅並木に込められた歴史
高浜虚子の記すところでは、「大国魂神社の前に、府中の町と直角をなしてをる馬場があつて、其の馬場の両側に、今は保護天然物になつてをる沢山の欅並木がある。五六町の間も続いてをつて頗る見事なものである。源義家が植ゑた欅であるといふのが、今は空洞になり、僅に葉が出てをるのがある。それは僅に一本であつて、それに連なつてをる幾百本といふ太い欅や楢の木は、徳川家康が大阪陣、関が原の両役に勝つた時にこの大国魂神社に奉納したものであるといふ」という説明になります。
虚子は「欅」に武蔵野の武将の影と合戦の終わりと天下統一により訪れた平和を読み取っているようです。
俳壇と別の次元
水原秋桜子は、その頃の俳壇は「全くホトトギスの天下」だったと回想しています。そして、「ホトトギスの天下」にもかかわらず俳句の地位を低く見積もる虚子に反発します。弟子としては、頑張ってきたという自負もあったのでしょう。
虚子は虚子で別の次元の「天下」を意識していました。無季俳句や自由律を唱える勢力との論争を終えて相互の理解が進み、「天下」をとっていたように見えてもそれは、近代俳句という新参者による小さな世界での出来事だったからです。
「天下」のイメージの違い
東京中心の俳壇で最前線を走ってすぐに答えがほしい秋桜子と、家康のようにどっしり構えて広く後世のことまで考える虚子とでは「天下」のイメージが異なりました。(武蔵野大教授、むさし野文学館館長・土屋忍)