ホテルに新しい料理長が赴任してきた。前任の料理長は「偉大なる腰掛け」と呼ばれるのんびりした男で、膝の痛みのため木の腰掛けを片手に雛鳥のようによちよちと厨房内を移動していた。
新しい料理長が船の厨房の経験を話すと、前任者は「やっぱり船の厨房では鍋一杯に湯を沸かせないのかね?」と丸い頬をほころばせて尋ねた。新料理長が「でかい船はほとんど揺れない」と答えると、前任者は驚き、一番大きな船の大きさや、金持ちが甲板で犬の散歩をしていたこと、プールがあったことなどを興味深そうに聞いた。
「沈んだから」と答えた理由
「なぜまたこんな海のない国に?」という屈託のない問いに、新料理長は「まあ、沈んだからですね」と至ってなんでもないことのように答えた。「揺れない船でも沈む。それがわかったんですよ」と続けた。前任者は「そ、そうか、それは災難だったな」と返し、鍋つかみのような手で肩を叩いた。
その後、前任者はこの国の古い宮廷料理から地域別の郷土料理まで懇切丁寧に教えてくれた。「偉大なる腰掛け」は陽気で人が良かったが、雑談を好みすぎる傾向があり、話を盛りがちでもあった。
「不沈の料理人」という渾名
引き継ぎが終わる頃には、新しい料理長の経歴がホテル中に知れ渡っていた。戦争前に沈んだ世界最大の客船の生き残りだとか、大勢の乗客を救命ボートに乗せたとか、ウイスキーを飲みながら氷山の浮かぶ海を朝まで泳いで助かったとか、戦時中は海軍の船にいたが撃沈され、それも生き延びたとか、果ては「不沈の料理人」という渾名までついた。
料理長はげんなりしたが、海のない国だからめずらしいのだろうと思うことにした。厨房は朝から晩まで忙しく、くだらないお喋りができるのも休憩時間くらいだ。皆いつか忘れるだろう、と高を括っていた。



