紺碧のアビタシオン第1回 母の肖像画にすがる美貴子の物語
紺碧のアビタシオン第1回 母の肖像画にすがる美貴子の物語

長い冬が終わり、春がやっと巡ってきた。大きな窓から差す光が、絨毯の床を照らしていた。窓の外からは甘いアカシアの香りが漂い、中国語の物売りの声、日本語、英語、ロシア語、通りをゆく馬車の蹄の音が、ひとつのやわらかな音になって、美貴子の小さな鼓膜を震わせていた。

五歳の美貴子と母の肖像画

昼寝から覚めて、五歳になったばかりの美貴子はすぐに母の肖像画を捜した。小さな額に入ったその絵が、ベッドの上、ブランケットの隙間から顔を出している。その額を手にして、美貴子は絵のなかの母を見つめた。

亡くなった母を描いた一枚の絵だった。豊かな黒髪を結い、その頃の母が気に入って着ていた銘仙の着物姿、黒曜石のような瞳でまっすぐにこちらを見つめている。「お母様……」と美貴子は絵を見てつぶやくが、絵のなかの母は返事をしない。

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スペイン風邪で失った母と双子の妹

二年前、美貴子が三歳のときに、母は生まれたばかりの双子の妹たちと共に、スペイン風邪で亡くなった。感染するかもしれないからと葬儀は慌ただしく行われ、母や妹たちの最後の顔を見ることも許されなかった。美貴子にとっては、ある日突然、母や妹たちが自分の目の前から姿を消したのと同じことだった。死という概念を理解するには、美貴子はあまりに幼すぎた。

母の記憶と父のまなざし

美しく、優しい母だった。母の顔は、この絵が自分のそばにありさえすれば忘れることはないだろうが、母の声の記憶は少しずつ美貴子のなかから薄れていく。そのことが悲しかった。まだかすかに記憶に残る「美貴子ちゃん……」と自分を呼ぶ声は、艶やかで落ち着いていて、その声を聞けば、自分は母に愛されているのだと心の底から信ずることができた。

母の絵が入った小さな額は、母が亡くなったあと、いつでも美貴子の腕のなかにあった。いっときは食事どきにもテーブルの上にその額を置いていた。父は何か言いたげな視線で美貴子を見たが、亡くなった母と同様、第一子である美貴子に甘い父は、何も言いはしなかった。

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