日本統治下の朝鮮北部・興南にあった一大化学コンビナート(興南工場)は、野口遵(1873~1944年)が率いる日本窒素肥料(日窒)コンツェルンが昭和2(1927)年、朝鮮窒素肥料を設立して建設を始めた。その誕生はいささか〝逆説〟めく。まず日本人技術者たちによって朝鮮北部の水力発電所の建設が行われ、「その電力を消費するために」興南の工場群が造られたからである。
電力消費のための工場建設
同工場にいた鎌田正二著の『北鮮の日本人苦難記―日窒興南工場の最後―』(昭和45年)を引こう。《日本窒素を世界的な化学工業会社たらしめたのは、朝鮮を舞台とした事業によってである。それは北鮮における発電事業にはじまる》とした上で、《この大電力をどういう風に使うかが問題である…大正十五年日窒の全額出資による朝鮮水電が設立されて、赴戦江の発電所建設が始められ…この電力を消費するために建設されたのが興南工場である》と記す。
逆説的な歴史の始まり
つまり、水力発電所が先に建設され、その電力を使うために工場が後から建設されたという、通常の産業発展の順序とは逆の経緯があった。この逆説的な誕生が、朝鮮北部における日本の産業遺産の一側面を物語っている。



