五輪史に爪痕を残したモスクワ五輪のボイコット。その始まりは、五輪を目指し鍛錬を続けていた柔道家・山下泰裕氏の日常からは遠い、国際政治での動きだった。
米国のボイコット提唱から緊急会議まで
1980年1月、米国のジミー・カーター大統領が、前年12月に始まったソ連のアフガニスタン侵攻を理由に、7月開幕のモスクワ五輪のボイコットを提唱した。日本など多くの西側諸国の政府が支持を表明し、4月には米国五輪委が不参加を決めた。
同年4月21日。日本オリンピック委員会(JOC)の方針が決まる前に、現場の声を伝える機会が必要だとして、山下氏の恩師である佐藤宣践氏、レスリングの福田富昭氏らが呼びかけ、強化コーチ・代表候補選手の緊急会議が開かれた。
山下泰裕氏の訴えと号泣
会議で山下氏は五輪参加の夢を訴えた。しかし、最終的にJOCは米国に同調し、モスクワ五輪への不参加を決定。山下氏は「毛布をかぶって号泣した」と振り返る。この経験は、その後の彼の競技人生や指導者としての姿勢にも影響を与えたという。
山下氏は後に、1984年ロサンゼルス五輪で金メダルを獲得。柔道界の第一人者として、また日本オリンピック委員会(JOC)会長としても活躍する。
「時代の証言者」連載から
本記事は読売新聞の連載「時代の証言者」からの一編。山下氏が「柔の道を生きる」と題して自身の半生を語るシリーズの第9回目にあたる。



