信長の怒りと秀吉のささやき
明智光秀は、斎藤を稲葉のもとに返さないよう信長に進言したが、信長は激怒。光秀の顔を扇で何度もひどく叩いた。
そこに現れた秀吉は、光秀の耳元でこうささやいた。
「主君(信長)は酷い人だ。われわれが骨を折って命を捨てて苦戦し大国を攻め取っても、いつまでもこのような態度を取られる。告げ口のために命を落とさないよう、随分、御身を大切になされよ」
『三河後風土記』によれば、この秀吉の言葉で光秀に「邪念」、つまり信長への謀反心が生まれたという。
また、江戸時代初期の随筆『老人雑話』には、秀吉が光秀に「夜に城を普請して謀反を企てていると人が皆言うているが、如何」と問う場面がある。光秀は「くだらないことを言う」と笑って返したとされる。
秀吉黒幕説の論拠を検証する
『三河後風土記』と『老人雑話』の逸話は興味深いが、いずれも史料的価値の高い書物ではない。これだけで秀吉が黒幕だったとはいえず、秀吉が黒幕であることを示す一次史料も存在しない。
それでも「敵対する毛利と素早く和睦し、ありえないスピードの中国大返しで都に帰還した秀吉の動きは不自然だ」という論拠は検証する必要がある。
本能寺の変当時、秀吉は毛利方の清水宗治が籠る備中高松城(現在の岡山市北区)を水攻めにしていた。そこに「信長死す」の報が到来。秀吉軍は毛利方と素早く和睦し、備前沼城(岡山市)から播磨国姫路城(姫路市)までの約70キロを一昼夜で進軍するという驚異的な行軍を成し遂げたとされる。



