中大・駿河台キャンパスの過密学生生活:雀荘避難や図書館争奪戦の実態
中大・駿河台キャンパスの過密学生生活の実態

中央大学の「駿河台キャンパス」は、かつて「駿河台記念館」として卒業生の交流の場として機能していた。しかし、1950年代から60年代にかけて、学生数が急増し、キャンパスは過密状態に陥っていた。

学生の不満:人数過多が最大の原因

1957年に実施された300名の学生アンケートでは、「学生生活を楽しいと思うか?」という質問に対し、「楽しい」と答えたのはわずか26.7%で、「楽しくない」が44.3%と大きく上回った。「楽しくない」理由のトップは「人数が多い(25.4%)」だった。

当時、昼間部の定員は1450人だったが、入学者数は毎年5500人前後。実に定員の約4倍もの学生を受け入れていた。その結果、教室の座席確保が困難で、長時間立ちっぱなしで受講せざるを得ない状況や、マイクを使用しても教員の声が聞き取りにくいといった問題が発生していた。

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さらに、2つあった図書館では、「座席を確保するためには、遅くとも午前8時の開館の1時間前には入口で並んでいなければならない」というありさまだった。

一つの教室に何百人もの学生が詰め込まれ、教員が一方的に講義するマスプロ教育は、学生に大きなストレスを与えていた。

人間関係の悩みと学費の高騰

「人数が多い」に次いで「友人がいない(2位)」という理由も挙げられ、いつの時代も人間関係が悩みの種であることがうかがえる。

学費も毎年のように値上げされ、1950年の8400円から1955年には2万円と、5年間で約2.4倍に上昇した。物価上昇に伴うものだったが、当時の下宿代(2食付き4畳半)が5000〜5500円程度だったことを考えると、学生の負担は大きかった。1952年の調査では、学費の未納がある学生が約21%もいた。

1953年の調査では、生活費を稼ぐために約半数の学生がアルバイトをしており、その70%は肉体労働だったという。

当時は「アルバイト六大学」という言葉があり、中央大学を筆頭に、早稲田、日本大学、明治、専修、法政が名を連ねていた。中大生は「校風によるのでしょうが地味ですネ。いわゆる町のアンチャン風な人はいない。堅実な学生らしさがあって評判がよい方」と評され、昔も今も「生真面目な中大生」というイメージは変わらないようだ。

過密な環境に嫌気が差した学生の中には、雀荘に避難する者もいたという。

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