中大・駿河台キャンパスの黄金期と移転の背景 教室不足や学生運動の影響
中大・駿河台キャンパスの黄金期と移転の背景

ライフ #街とキャンパス 学生から不評だった「中大・駿河台キャンパス」の青春

「教室が混みすぎて雀荘に避難」「図書館は朝7時から並んで席取り」――そんな不満が学生から上がっていた中央大学の駿河台キャンパス。8分で読める公開日時:2026/06/19 05:30。中大の「駿河台キャンパス」には以前「駿河台記念館」があり、卒業生の交流の場として機能していた(写真:筆者撮影)。

松本 史 フリーランス編集・ライター フォロー。全5ページのうち、神田カルチェ・ラタン闘争でバリケードが築かれた明大通り。筆者の知人の60代男性は、当時たびたび駿河台で闘争が起こっていたため、母親が御茶ノ水に用事がある日は心配だったと話していた(写真:筆者撮影)。

東大を圧倒していた駿河台時代の中大

決して教育環境が整っているとは言えず、学生運動も激しい状況ながら、当時の中大は法科の名門として東大も圧倒する揺るぎない地位を築いていた。1951年から1970年までの20年間、大学別の司法試験合格者数で首位を独走。年間に250~500人程度しか合格者が出なかった当時の旧司法試験で、1964年にはなんと174人もの合格者を出し、2位の東大67人と2.5倍以上の差をつけている。

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さらに箱根駅伝でも1950年代は頻繁に優勝し、1959年から1964年までは6大会連覇という記録を打ち立てた。近年、箱根駅伝といえば青学だが、中大の6大会連覇はいまだ破られていない。中大にとって、駿河台時代はまさに黄金期だったのだ。

御茶ノ水駅周辺のシンボル的な建物、東京復活大聖堂。通称ニコライ堂(写真:筆者撮影)。そんな黄金期を築いた駿河台から、なぜ中大は移転してしまったのか? 続く中編では、中大がなぜ多摩への移転を決めたのか、また、法律や規制、社会情勢に翻弄され、駿河台を手放すことになった経緯を紹介する。

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