「ラピュタの島」として知られる友ヶ島は、現在は廃墟が立ち並ぶ無人島のイメージが強いが、かつては年間約9万6000人が訪れる人気リゾート地だった。戦後間もない1947年頃から観光開発が始まり、1964年度にピークを迎えた。しかし、バブル崩壊とともに衰退し、現在は再び注目を集めている。
戦後の観光開発と黄金期
友ヶ島(主に沖ノ島)に最初に目をつけたのは、大阪の鉄道会社・南海電気鉄道だった。南海電鉄は和歌山市から許可を得て、島内での観光事業を本格的に展開。1950年には友ヶ島が「瀬戸内海国立公園」に指定され、知名度が向上した。さらに、観光用に50〜60頭のシカやタイワンリスも持ち込まれた。
1955年から1965年にかけては島が最も賑わい、特に東京オリンピックが開催された1964年度には、ピークとなる約9万6000人の観光客が訪れた。1970年から1980年にも、京都・大阪・神戸から2時間でアクセスできる立地を生かし、キャンプや釣り、海水浴などのアウトドアレジャーが楽しめる離島として親しまれた。
バブルとリゾート法による転換
しかし、時代の変化とともに「レジャーの島」としての人気は徐々に陰りを見せる。1980年代後半のバブル全盛期、日本はリゾートブームに沸き、1987年にはリゾート法(総合保養地域整備法)が制定された。全国各地で大規模なリゾートホテルやゴルフ場が建設され、ハウステンボス(長崎・1992年開業)や志摩スペイン村(三重・1994年開業)などのテーマパークも次々とオープンした。
このような大規模リゾートの台頭により、友ヶ島のような小規模なレジャー施設は競争力を失っていった。1999年度の年間入島客数はピーク時の4分の1以下にまで減少し、島の観光事業は衰退の一途をたどった。
廃墟となったリゾート施設
現在、友ヶ島には廃旅館やサビた流し台、コイン式シャワー室など、かつてのリゾート施設の残骸が点在している。沿岸部には「観光旅館 富士屋別館」といった廃墟もあり、外壁にクラックが入り、今にも崩れそうな状態だ。これらの施設は、かつて多くの人々が宿泊し、海水浴や釣りを楽しんだ名残である。
しかし近年、この廃墟群が「ラピュタの島」としてSNSなどで話題となり、再び観光客が訪れるようになった。軍事要塞の跡地と廃墟リゾートという異色の組み合わせが、新たな観光資源として注目されているのだ。



