1945年夏、米軍艦艇による釜石市への艦砲射撃から81年。体験者たちが当時の惨状を振り返り、平和の尊さを訴えている。
7月14日と8月9日の2度にわたり、約5300発の砲弾が撃ち込まれ、4300棟ほどが被災、750人以上の市民らが犠牲になったとされる。
「戦争は二度としてはいけない」
大槌町吉里吉里の前川イツ子さん(96)は、当時高等女学校2年生。1945年春から学徒動員でトンネル掘削作業に当たっていた。7月14日、突然の爆音で耳が聞こえなくなり、トンネル内が崩れて腰から下が土に覆われた。年上の男性作業員に救助され、約2時間後に外へ出ると、市街地は一変していた。
製鉄所の煙突は折れ、市街地は火の海。防空壕からは市民の首だけが見え、「瀕死のけがを負う市民らが助けを求めてきたが、助けることができなかった」と語る。靴は熱で溶け、もんぺも焼けた。血だらけで実家へ向かい、「戦争は物語ではなく、現実なんだ」と震えた。
山を越え、午後9時頃に実家へ到着。母に呼びかけるも返事がなく不安に駆られたが、近くの防空壕で家族の声を聞き、安堵したという。
前川さんは東日本大震災の津波で自宅を失い、今年4月の山林火災では火の手が目前に迫った。自然災害と戦争とで抱く感情は違うとし、「戦争は大嫌い。孫やひ孫、その先の子どもにも経験してほしくない」と平和への思いを語る。
「遺体が山のように積まれていた」
盛岡市議の高橋和夫さん(87)は、戦争末期の幼少期を釜石市で過ごした。艦砲射撃後、国鉄職員だった父と釜石駅へ向かうと、駅前の広場には「遺体が山のように積まれていた」という。製鉄所の煙突は数本折れ、砲弾が貫通していた。
戦時中は食料不足で、「とにかく何でもいいから食べ物が欲しかった」と振り返る。生臭い魚や山で採ったクワの実、カキの干した皮など、食べられそうなものは何でも口にした。
あの夏から81年。「記憶が風化しないように若い世代が戦争を語り継ぎ、知ろうとする努力が必要だ」と語った。



