戦時下の少女と日本兵、6年の文通…80年後に墓参果たす
戦時下の少女と日本兵、6年の文通…80年後に墓参

京都府大山崎町の二谷世津子さん(94)は、旧日本兵の笹嶋信三さんから届いた手紙やはがきを大切に保管し続けてきた。笹嶋さんは中国戦線などに出征し、30歳で戦死した。往復書簡は6年にわたって続いたが、終戦直前に沖縄から届いた絵はがきを最後に途絶えた。昨年、笹嶋さんの故郷を訪ね墓参を果たした二谷さんは、遠き日を思い返しながら、いまなお絶えぬ戦争の悲惨さを訴える。

慰問袋がきっかけで始まった文通

文通のきっかけは、二谷さんが7歳を迎えた昭和14年、日中戦争で戦地に赴いた日本兵を励まそうと、二谷さんの家族が送った慰問袋だった。日用品と一緒に同封した二谷さんの手紙を偶然受け取った笹嶋さんが返事をくれた。当時、慰問袋に入れた手紙がきっかけで文通に発展するケースもあった。

それから2人は互いの近況などを文通で報告し合うように。昭和19年12月には、当時29歳の笹嶋さんが果物籠を手土産に大阪市の二谷さんの実家を訪れたが、二谷さんは戦況の悪化で兵庫県内に疎開しており、すれ違いとなった。

Pickt横長バナー — Telegram用の共同買い物リストアプリ

沖縄からの最後の絵はがき

昭和20年2月には、国内唯一の地上戦を間近に控えた沖縄から絵はがきが届いた。笹嶋さんは現地の気候や自然に触れた後、「今年は女学校に試験を受けられる事と思いますが(中略)たのしいお知らせを待って居ります」と二谷さんを励まし、「又お便り致します お元気で勉強しなさいよ さようなら」と締めくくった。その後、女学校への合格を知らせるため二谷さんが送った手紙に返事はなかった。

二谷さんは笹嶋さんを「いつも背中を押してくれた優しい人。お会いしたかった」と振り返る。ただ、笹嶋さんの行方は長らくわからなかった。結婚、出産を経て5人の孫に恵まれた幸せをかみしめながらも、「笹嶋さんは今どうしてるんやろう」との思いは消えずにいた。

80年後の墓参

十数年前、沖縄県糸満市の平和祈念公園を訪れた孫が、戦没者の氏名が刻まれた「平和の礎」に笹嶋さんの名前を見つけた。「もう1度手紙を届けたい」。強い思いにかられた二谷さんは、笹嶋さんの故郷が秋田県という手紙の記述をたよりに昨年5月、テレビ番組の企画を通じて秋田県遺族連合会に連絡をとり、笹嶋さんが沖縄戦最中の昭和20年5月21日に亡くなっていたことを知った。

笹嶋さんの親族に会い、墓前で「いつも見守ってくださっていると思っている」「幼い私に優しい手紙をありがとうございました」などと感謝を伝えた。

二谷さんは戦後81年経ってもなお世界で戦争が絶えない現状に「なんで人の命を奪ってまで勝ちたいと思うのか。戦争は悲しみしか生まない」と語気を強め、こう訴えた。「今があるのは一生懸命に生き亡くなった人たちのおかげ。未来を私たちに託してもらったんやから、しっかり生きないと」。

Pickt記事後バナー — 家族イラスト付きの共同買い物リストアプリ